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戦国時代

2018.06.08(07:00) 154

**戦国期の鎌倉

**北条早雲・戦国大名化への道

    相模国に侵攻した北条早雲は、永正九年(1512)にようやく鎌倉に到達した。  伊豆・相模に侵攻してから十九年を擁した。  この頃の早雲の家臣で、特に事績の判る越智弾正忠・関時長・後藤繁能を特筆しておこう。  
越智弾正忠は早雲の相模国侵攻の過程で家臣となり、様々な戦闘で戦功をあげ、嫡男も官職を得ている。  関時長は早雲の一族と思われ、伊勢国の出身という。  天文元年(1532)から北条氏綱によって始められた鎌倉・鶴岡八幡宮の修築工事に、工事の監督奉行として時長が活躍しており、工事現場では鎌倉番匠(大工)奉行を務めた。
 後藤繁能は関時長の同僚として鎌倉鍛冶職の福本氏文書に初見する。 後藤氏は鎌倉の豪族で、鎌倉初期に鎌倉の寺院で仏像制作をしていた大仏師・運慶の流れを受けた仏師の末裔と伝わる。  天文元年からの氏綱による鶴岡八幡宮の造営工事には、工事現場の監督奉行を勤めた。

**三浦氏との激闘

永正九年~十年頃の、三浦半島は三浦氏の支配地であり、鎌倉周辺も三浦氏の勢力下にあった。 早雲は鎌倉から武蔵・本牧(横浜市・中区)方面に進撃したが、それ以上進めなかった。

  その頃、今川氏親(ujitika)が遠江国に侵攻し、早雲は先手として参戦しており、早雲は一時期は鎌倉攻撃を放棄したらしいが、再び三浦攻撃を始めた。  三浦氏の住吉要害(逗子市)に籠る三浦道香(doukou)・(道寸弟)を攻撃、攻め滅ぼした。
三浦道香・主従墓所    (逗子市・延命寺)
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  永正十三年(1516)、扇ヶ谷上杉朝興(asaoki)が三浦氏救援の為相模中郡に侵攻したが、北条軍に撃退された。 これを機に早雲は、再び三浦道寸攻略の軍を起こし、新井城を攻囲した。 新井城では兵糧も尽き、援軍もない状況で、上総に落ち延びる事を進言したが道寸は新井城を死守する覚悟をし、最期の突撃を敢行して全滅した。  ここに鎌倉期以来の名族・三浦氏は滅亡した。     次回へ




**運慶小辞典

**運慶工房の仏師たちは、京都・東寺講堂の21体の諸像の修理と共に、それと並行しながら南大門の仁王像(金剛力士像)の新造、更に中門・二天の造立も行うなど大車輪の仕事ぶりであったが、さらに同時期、高野山の行勝上人(giyousiyou)の依頼で、不動明王に従う八大童子像を造立している。建久八年ないし九年といわれている。  (金剛峯寺・一心院不動堂)通常非公開、数年に一度公開。

〇 恵光童子(ekou)(菩提心門)【96・6㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師・運慶工房現存・国宝
〇 恵喜童子(eki)(福徳門)【98・8㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師・運慶工房現存・国宝
〇 鳥俱婆誐童子(ugubaga)(菩提心行)【95・1㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶工房現存・国宝
〇 清浄比丘(seijiyou)(福徳心行)【97・1㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶工房現存・国宝
〇 矜羯羅童子(kongara)(慈悲心行・知恵)【95・6㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶法印現存国宝
〇 制吒迦童子(seitaka)(方便心行・精進)【103㌢木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶法印現存国宝
〇 阿耨達童子(anokuta) 【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶工房 焼失 再建・国宝付属
〇 指徳童子(sitoku)【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師運慶工房 焼失 再建・国宝付属

**矜羯羅童子・制吒迦童子の二体の像は出来栄えがひときわ優れ運慶法印の作とされる。 焼失した阿耨達童子・指徳童子の二体は鎌倉後期あるいは南北朝時代の補作で伝来、国宝付属となっている。

平成30年戊戌・己未‣辛未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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