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戦国時代

2018.06.16(07:00) 156

**戦国期の鎌倉    

 **鎌倉の復興
  
    鎌倉は源頼朝が武家の都をおいてから、三百年間も関東の武家の都であった。  室町幕府は鎌倉に足利基氏を置いて幕府の関東統治の出先機関としたから、その後も武家の都として繁栄した事は変わりない。  ところが、永享の乱(1438~39)や永正の乱(1504)などで荒れ果て、かつての繁栄は見る影もなかったと伝わる。  特に、三浦義同(yosiatu)・(同寸)と早雲が鎌倉周辺で五年間も合戦を繰り返しので、その荒廃ぶりは凄まじいものであった。
     
 永正九年(1512)に早雲が堀越公方の後継者として鎌倉に入った時、その荒廃ぶりを嘆いたという。  早雲が鎌倉を再建したという記録は残されていないが、本覚寺や円覚寺に早雲の文書が見られ、鎌倉の復興に努力した形跡は認められる。

 永正十五年(1518)に鎌倉の伝統的な鍛冶職人に宛てた早雲・家臣の関時長、後藤茂義の連判書状から、初期鎌倉代官には、玉縄城の城主であった伊勢氏時(小田原北条氏)の重臣・関時長(tokinaga)が務めていたと推定されるが、早雲没後の同十七年からは、早雲の重臣で、その一門になる大道寺盛昌(morimasa)が新たに鎌倉代官に就任した。

鎌倉の初代代官は早雲の従兄弟と伝える大道寺発専(hotusen)(重時)の嫡男・盛昌である。 大道寺盛昌は早雲に初期から随伴した重臣で、早雲が今川家臣として在城していた時には、既に側近家臣として仕えていた記録が残されている。

**鶴岡八幡宮の再興

   天文元年(1532)から九年にかけて、北条氏綱(小田原城主)の鶴岡八幡宮の再建工事が行われた。  巨額の費用と大量の職人や人夫を使った、小田原北条家挙げての大工事であった。
氏綱は相模守護職として、鶴岡八幡宮が源頼朝の東国統治における守護神であり、また、関東武士の信仰の心の拠り所である神社と捉え、はたまた、鎌倉北条家を政治的に継承する立場として、その再建には全勢力を投入して工事を貫徹させた。
鶴岡八幡宮・一の鳥居  (鎌倉市・由比ヶ浜)
一の鳥居
妻・政子の安産を願って建立  八幡宮・参道(段葛)    (鎌倉市・雪ノ下) 
段葛
小田原城は鎌倉とは違って伊豆・相模・武蔵を統括する戦国大名北条氏の本拠で、後に「相府」と北条氏が自ら称する様に、相模 国の国府としての位置づけであった。 それに対し鎌倉は、氏綱配下の侍衆はもちろん、旧来の武士たちの心の故郷であり、政治的にも政治的にも重要拠点であった。

北条早雲は足利義澄を将軍に擁立せんとした細川政元(masamoto)の計画によって行動した結果、伊豆にいた堀越公方・足利茶々丸を滅ぼし、伊豆国守護を継承した。
 これは義澄にしてみれば、実の母と弟を殺害された事への復讐戦の勝利であり、政元からすれば、室町幕府から独立しつつある関東統治の拠点の鎌倉府への早雲によるテコ入れであった。
  早雲が伊豆平定後も韮山城(nirayama)を動かなかったのは、堀越御所の近くにあった韮山城を伊豆の国府と捉え、堀越公方の代行者としての政治的な意味合いが存在したものと推測される。

    相模へ進出した早雲は鎌倉に本拠を据える事無く、西の端に位置する小田原城をを本拠地と定めた。  その子氏綱が、小田原城を拠点として本城の移転を行わなかったのも、父早雲の鎌倉公方再興の為の使命を継承する者として、その事業を貫徹するための処置であったと考えられる。
 
   氏綱が、武蔵に進撃するに際してあえて鎌倉の北部に位置する玉縄城を拠点として軍勢を出撃させているのも、鎌倉府の代行者としての位置付けを守っての行動と捉えると、説明が付く。   武蔵へ進撃して勝利したその直後に、鎌倉公方を継承する古河公方・足利高基(takamoto)に恭順の意を表して、江戸城主・遠山直景(naokage)にその旨の起請文を提出させているのも納得がいく・・・・。

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    **運慶小辞典

   **つづく時期の運慶作品で今に残るのが、奈良・興福寺北円堂の諸像です。 興福寺の復興は建久五年(1194)の供養で一段落したのですが、主要堂宇の中では北円堂の再建だけが手つかずで、工事が再開されたのが治承四年(1180)の焼失から27年もたった承元元年(1207)の事。 造仏のスタートはさらに翌年にの事でした。
   * 本尊の台座に残された墨書などからこの時の造像は9体を11人の大仏師で作る体制で分担された事が判っています。
〇 弥勒如来坐像 【141・9㌢木造寄木造り 漆箔】 仏師・源慶、静慶、運慶  現存・国宝
● 法苑林菩薩 【サイズ不明・脇侍坐像】 仏師  運慶工房  焼失、平安時代 未再建
● 大妙相菩薩 【サイズ不明・脇侍坐像】 仏師 運慶工房  焼失、平安時代  未再建
〇 無著菩薩立像 【194・7㌢木造一木造り彩色・玉眼】 仏師・五男運賀  現存・国宝
〇 世親菩薩立像 【191・6㌢木造寄木造り彩色・玉眼】 仏師・六男運助  現存・国宝
〇 持国天 【206・6㌢木造寄木造り彩色・彫眼】 仏師・長男湛慶  現存・国宝(南円堂安置)
〇 増長天 【197・5㌢木造寄木造り彩色・彫眼】 仏師・次男康運  現存・国宝(南円堂安置)
〇 広目天 【200・0㌢木造寄木造り彩色・彫眼】 仏師・三男康弁  現存・国宝(南円堂安置)
〇 多聞天 【197・2㌢木造寄木造り彩色・彫眼】 仏師・四男康勝  現存・国宝(南円堂安置)

  ** 養老五年(721)、藤原不比等の一周忌に創建された興福寺・北円堂は、平安時代に2度焼失。再建された現在の建物は3代目。 弥勒如来・無著・世親は現存、如来の両脇侍は平安時代に焼失、四天王は平安時代の作で木造乾漆造りです。  運慶をめぐる近年の動きは、現在南円堂に安置されている四天王こそが本来の四天王なり、との新説が定着した事です。
 *現在の北円堂・四天王は南円堂のものよりやや小ぶりで木造乾漆造りの四体です。 どの時代かは不明であるが何らかの事情で入れ替わった?・・・・ものと推定されます。 もちろんこの四天王も国宝に指定されています。

平成30年戊戌・己未‣己卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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