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戦国時代

2018.06.20(07:00) 157

**戦国期の鎌倉

**快元僧都記(kaigensouzuki)

北条氏綱の生涯で最大の事業となったのが、鎌倉・鶴岡八幡宮の修造・造営工事であるが、その工事現場を相承院(soujiyouin)の供僧の快元が訪れては、その進捗状況を記録したのが『快元僧都記』である。
 この史料は書名のごとく、鶴岡八幡宮の二十五坊中、相承院の供僧である快元僧都、享禄五年(1532)5月~天文十一年(1542)5月までの11年間に渡って記録したもので、神社造営の進捗状況を正確に記録した第一級の史料。

この快元僧都記には、鶴岡八幡宮の造営に関する記事はもとより、工事に参加した職人と人足など、実際に工事を行った職人衆や人夫などの情況が詳細に記録されており、戦国時代の職人衆達の研究には欠かさない貴重なものとなっている。

  特に小田原(後北条氏)北条氏の研究上、この史料の意義は大きく、北条氏綱(早雲・嫡男)・為昌(氏綱・次男)・北条幻庵(早雲・四男)・大道寺盛昌(鎌倉代官)などの役割を解明する手掛かりとなっている。  それも確かであるが、もっと重要な内容を含んでいるように思われる。  それは、「北条氏所領役帳」 の中の北条氏家臣たちの解明の糸口となるものであるからである。

  その『快元僧都記』であるが、まず天文元年(1532)正月に鎌倉代官の大道寺盛昌と小机城主の笠原信為(nobutame)を使者として鎌倉に派遣し、八幡宮の古木の状況と、どの程度の修築・造営を必要とするかを調査させる事から記述が始まっている。以後は工事の進捗状況と参加した侍や職人の様子、部材の集積の方法、金銭の状況などが詳細に記述されている。  

  当時の関東の職人集団の有様や京都・奈良の職人とその周囲の情況、また、北条氏を取り巻く周囲の政治情勢も記述されており、同時に武蔵や相模、はたまた房総を始めとして、駿河や甲斐・遠江などの今川領の情況迄伝えている。

特に重要な情報として造営用の建築資材を調達していた房総方面の政治情報などによって部材が潤沢に調達できないような状況が記されている。  当時の北条氏領国内では、すでに鶴岡八幡宮などの大規模な神社や寺院などの造営に使える良質な材木は払底していて、遠く津久井の山中や伊豆の天城山、或は房総半島にまでも資財を求めなくてはならない状況を記録している。

現在でも、関東地方には樹齢500年を超える巨木・銘木等は、寺社の御神木以外には、見当たらないと思われる。  氏綱の時代だけでも箱根神社・伊豆山権現・三島大社・寒川神社等の修築が確認されており、その他、大小の寺社造営も地元の領主を中心に行われていたから、それらの部材の調達で周囲の山林を丸裸にしてしまったものと思われる。
そして、それにもまして氏綱や普請奉行の統括責任者であった大道寺盛昌や太田正勝(masakatu)を悩ませた事が有る。  それは周囲を取り巻く政治情勢によって、工事に参加して現場監督の責任者の役割を担っていた、とくに川越城と玉縄城に属する侍衆たちが、房総方面や駿河・甲斐などに頻繁に出陣する事が有ったからである。  工事に参加したこれらの侍衆たちは、自分の所領の役高の程度によって、どの程度の参加をするのかが決められていたようである。 職人もさる事ながら、侍衆の負担も相当なものであった事が推測される。
   鎌倉が東部にあった事から鶴岡八幡宮の造営でも玉縄城の管轄になり、その為に川越衆と玉縄衆は、主力として働かざるを得なかったのである。  後に編纂される『北条氏所領役帳』によれば、この時の造営工事に参加した為に、諸役を免除さる者もあったようだ。 それほどに、この天文初年の鶴岡八幡宮の造営工事は、玉縄城の北条為昌や川越城の北条綱成(tunasige)(三代玉縄城主)らには大きな負担であった。
玉縄城址【現・清泉女子学院中・高等部】 (鎌倉市・城廻)
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玉縄城・諏訪壇 (玉縄城址)
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後北条氏・家臣(玉縄衆・甘粕氏邸 長屋門  (鎌倉市・大船)
甘粕家・長屋門

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    **運慶小辞典

 **運慶一門は続いて、承元二年(1208)に雷火で焼失した法勝寺・九重塔(hotusiyouji)の再興造像に参加します。 この寺院は白河院が創建した王家の寺ですから、再興の主体は後鳥羽院です。 
 社会の全勢力を自らの権威の許に統合しようとした上皇は、造仏にあたり正当三派を平等に起用します。 この九重塔再建にあたっては鎌倉・寿福寺の開山でもある栄西禅師(yousai)が大勧進として関わっており、頼朝との関りも推測できる。 
   造像されたのは五智如来と四天王で運慶工房が担当したのはおそらく四天王でしょう。(現存せず)   五智如来は院派・院実、円派・寛円が等が担当したものと思われる。
● 持国天  【サイズ不明 木造寄木造り彩色・玉眼(推測)】仏師 運慶工房  消失・未再建
● 増長天  【サイズ不明 木造寄木造り彩色・玉眼(推測)】仏師 運慶工房 消失・未再建
● 広目天  【サイズ不明 木造寄木造り彩色・玉眼(推測)】仏師 運慶工房  消失・未再建
● 多聞天  【サイズ不明 木造寄木造り彩色・玉眼(推測)】仏師 運慶工房  消失・未再建
  
**建暦三年(1213)法勝寺・九重塔供養の造像が完成。・・・・・湛慶、運慶の譲りによって法印となる。
この頃、運慶工房は嫡男・湛慶を中心に活動していたようだ、法勝寺の造仏供養も無事に完成したのであるが、四天王造仏のの具体的な情報がありません。  後鳥羽院・栄西禅師の勧進と門跡寺院としての風格から、奈良興福寺の南円堂・四天王像と同等もしくは、それ以上の造仏が推測されるのですが・・・・・。

平成30年戊戌・己未‣癸未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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