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戦国時代

2018.06.24(07:00) 158

**戦国期の鎌倉

**鶴岡八幡宮の再建

   なぜ氏綱は、激動の最中に鶴岡八幡宮の再建工事を強行したのであろうか。 『快元僧都記』には、氏綱が工事費用の募禄と称して、関東の武士たちにその可否の調査を行っている。  その事は、募縁に名を借りた北条方・上杉方への武士たちの去就に関する調査を兼ねていた。

その工事募縁を募りに走り廻った使者は、遠くは群馬県の三国峠や碓氷峠近くにまでにも赴いている。 このような種々の要素が絡んだ鶴岡八幡宮の工事への参画は、武士たちに合戦に参加したした時と同じような軍役を果たしたと評価された。  つまり、侍衆にとっては工事への参画は合戦に出陣したのと同じ軍役責務の奉公になったのである。

**困難な造営事業

   氏綱はこの造営事業には大変な気の入れようで、完成間近い回廊の柱の朱を自ら塗ったと伝わる。  この気の入れようは、父早雲からの継承事業であった為と、鎌倉の復興が北条氏の関東勇躍の必須条件であった為であろう。

  『快元僧都記』には北条家の侍の他に、数多くの職人集団が登場している。  その主なものは、小田原城の北条氏綱直轄の大工の他、鎌倉大工、伊豆大工、玉縄大工、奈良大工、京大工、鍛冶国安、白壁師、檜皮師、大鋸引、塗師、石切、瓦師、炭焼きの15集団で、特に重要であったのは鍛冶職人で、釘やかすがいなどの鍛造や大工道具なども誂えていた。   それら職人たち活躍と共に、材料の種類の豊富さと、その品不足によって職人や請け負った侍たちに非常な苦労を強いている様子なども記録されている。

* 注目される事は京都・奈良からの大工職人の招請である。 おそらくは優秀な宮大工を八幡宮の造営に充てる為、招請されたのであろう、当時の小田原北条氏の力量が見えてきます。
  
   例えば材木では、氏綱と駿河の今川氏との間が武田信虎の介入で途絶した以後は、駿河からの材木の搬入が滞りはじめ、材木不足は深刻化していた。
夏・鎌倉の花々・・・化粧坂・海蔵寺境内にて    (鎌倉市・扇ヶ谷)
萩・海蔵寺
桔梗海蔵寺
マツバ牡丹
凌霄花
この僧都記は、勿論、鶴岡八幡宮の造営の記録が主であるが、欄外にはその当時の氏綱を取り巻く事件や政治情勢も記録されており、その意味でも史料として貴重である。  早雲の死後に、氏綱が遭遇した他の大名との抗争は、永正十七年(1520)にも始まり、駿河の今川勢が甲斐の都留郡に侵入して、甲府の南で武田信虎(nobutora)と戦って敗退した記事がなどが残される。    このことは、氏綱もそれに同調して今川勢を助成して、武田勢との抗争を続けていた事を示している。

翌年今川氏親(ujitika)が甲斐に侵攻している。  武田氏と今川氏との第三次抗争が激化して、今川氏の重臣である福島氏が壊滅的な大敗を喫して、甲斐を撤退している。 大永三年(1523)に和睦が成立して、今川氏親の甲斐侵攻が終息すると、北条氏綱による武蔵侵攻が再開された。  大軍を率いて多摩川を超えた氏綱は、江戸城に籠る上杉朝興(tomooki)を攻略して、川越城に追った。  これ以後、川越城の朝興と氏綱の激闘は北条氏康(ujiyasu)・(氏綱嫡男)の時代まで断続的に続き、扇ヶ谷上杉氏との抗争は20回以上に亘って繰り返される戦いであった。
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 **運慶小辞典  
     **建保年間、運慶の仕事は再び鎌倉幕府、それも将軍の周辺に集中します。  
 源実朝(三代将軍)の持仏堂の本尊として釈迦如来像を造立。   京都で制作されたものを鎌倉まで搬送している事が「吾妻鑑」の記事にある、供養は東大寺大勧進職を勤めた退行行勇が行っている。
  * 同じ頃、「源氏大弐殿」発願の大日如来・愛染明王・大威徳明王像が「法印運慶」 の作で、三尊構成で造仏された事が判ってきた。  平成十九年に横浜・称名寺の子院・光明院の『大威徳明王』像の納入品の奥書から、建保四年に大日如来・愛染明王と共に三尊構成で、法印運慶が造仏した奥書が発見された。 
●釈迦如来座像【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師法印運慶 実朝持仏堂(大倉御所)消失・未再建

●大日如来坐像【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師法印運慶 実朝持仏堂(大倉御所)消失・未再建
●愛染明王座像【サイズ不明木造寄木造り彩色・玉眼】仏師法印運慶 実朝持仏堂(大倉御所)消失・未再建
〇大威徳明王像【サイズ21・2㌢木造割矧造り彩色・截金・玉眼】法印運慶実朝持仏堂 現存・称名寺・重文

  **これらの三尊は将軍・実朝の奥向きを束ねる「源氏大弐殿」の発願で、法印運慶により造立されたものである事が近年明らかにされた。 これらは京で作られたものを釈迦如来と同様に鎌倉に送られたものと推定されている。

平成30年戊戌・己未‣丁亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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