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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.11.28(18:35) 16

⁂流人・頼朝

平治元年(1159)、12月 数百の軍兵が後白河上皇の御所三条殿を襲い、上皇の身柄を拘束した、同時に上皇の寵臣藤原信西(sinzei)の居所を襲撃し、信西は襲撃を事前に予知していて脱出したが逃亡途中で討たれてしまった。  (平治物語)
平治の乱と呼ばれるこの事件の発端を成したあの兵らは、藤原信頼・源義朝(yositomo)(頼朝・父)に率いられていた。  保元の乱の時は、崇徳上皇方を倒した後白河天皇(当時)方に、義朝は平清盛と共に付き、勝利したが、源家は義朝の父為義(tameyosi)と弟たちが崇徳上皇側に付いた為、天皇の命で義朝の手によって処刑され、その結果源家全体の権威は大幅に減退した。
一方、清盛の方は一気に上昇気流に乗って中央政界に進出しようという機運に恵まれた。  そこで義朝は、後白河上皇の近臣信西(sinzei)が清盛とも近いことから、信西のライバルである信頼(藤原)を支援し、まず上皇を抑えてから信西を倒し、その勢いで清盛を圧倒しようと考え、清盛が紀伊の熊野神社に参詣に行った隙をついて作戦を実行した。
この時義朝麾下として戦った兵は、義朝の子、悪源太義平(yosihira)・朝長・頼朝、他に一族の叔父義高・弟義盛(行家)・従弟重成・平賀義宣(yosinobu)がおり、 郎党として関東武士の波多野義道・三浦義澄・山内首藤俊道・同俊綱・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総介広常らであり、 他に常陸・上野の武士も加わっていた。 関東以外に近江・尾張・三河・信濃・甲斐の武士の名も見えていて、義朝の武家棟梁としての地盤が東国にあることをよく示している。    (平治物語)
緒戦は信頼・義朝の筋書きどうりに進行したが、清盛の素早い反撃にあった、清盛は直ちに都に返して、信頼・義朝の軍勢を破り、後白河上皇の身を取り戻した。  一方敗れた信頼は、六条河原で斬首された。
義朝は本拠の鎌倉に戻って再起をはかろうとしたが、尾張国で郎党の鎌田正清と長田忠致に裏切られ謀殺されてしまった。また息子の義平(yosihira)(嫡男)は一旦北陸方面に落ちるように命じられたが、清盛を討つべく秘かに京に戻って機会を狙っていた。しかし平家方に発見され奮闘したが、六条河原で斬首された(20歳)。  さらに次男朝長(tomonaga)は父の命で信濃に落ち、甲斐・信濃の武士をまとめて再起するよう発ったが、戦での傷が悪化して父の許に戻り、激怒した義朝の手で殺されたという。
坂東三十三観音霊場第一番札所・・・幕府が開かれる500年以前からある「杉本寺」
杉本寺・本堂
杉本寺・参道

一方、三男頼朝は13歳で初陣したが、父の敗戦でやはり東国に落ちる途中、関ヶ原辺りで追手に捕えられ六波羅の清盛の許に捕えられた、そして兄義平と同じ運命となる処、清盛の継母池の禅尼(ikenozenni)が、 頼朝が早世した我が子家盛(iemri)に似ていると聞いて、清盛の長男・重盛を通じて頼朝の助命を嘆願、伊豆蛭ヶ小島に流され、土地の国衙在庁、伊藤祐親(suketika)・北条時政の監視する処となった。 次回に続く

丙申・庚子・甲寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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