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戦国時代

2018.07.02(07:00) 160

**戦国期の鎌倉

**初期玉縄城の城主

   北条氏綱(ujituna)の時世では、領国の支配拠点として小田原城にもまして重要であったのは、相模川の東部から武蔵との国境にいたる広大な地域を統括する玉縄城の支配権の確立であった。
  玉縄城は現在のJR大船駅の北側に位置し、相模野台地の先端の丘陵地上に、東から南に流れる柏尾川を堀として築城された大城郭である。

   江戸方面と相模を結ぶ交通の要衝に位置しており、三浦方面への首部を抑える要地に当たっていた。  相模侵攻の初期、早雲が三浦半島に勢力を持つ三浦義同(yosiatu)(同寸)を封じるには格好の場所であった。

     玉縄城の城跡は昭和中期までは、かなりの土塁や曲輪等が残っていたが、その後の開発で、それらは大方消滅してしまい、いまでは僅かに本丸周辺の土塁が清泉女学院の敷地の周囲として残されている。

   この城は北条早雲の築城といわれてきたが、史料調査からは、それ以前、扇ヶ谷上杉氏と山之内上杉氏との激しい攻防戦がこの城をめぐって繰り返されており、早雲によって玉縄城は大城郭として補修がなされ、相模東部の抑えとして整備された事が判ってきた。
  推測するに、両上杉氏の攻防戦の間に玉縄城は一部破壊され、早雲が三浦氏からの鎌倉の防御拠点とし、修築して再興したものと思われる。

    玉縄城の初代城主には早雲の次男氏時(ujitoki)が就任した。  しかし、北条氏時に関する史料はほとんど残っていない。
その軌跡はあまりわからない・・・・。 渡内(藤沢市)・二伝寺に残される位牌によると享禄四年(1531)8月に死没し、同寺に墓所がある(未確認)。

二伝寺山門 (藤沢市・渡内)
二伝寺・あじさい
北条早雲禅寺・天獄院山門 (藤沢市渡内)
早雲禅寺
天獄院
DSCN3108.jpg
**二代・為昌(tamemasa)

二代目城主には、小田原本城・氏綱の次男・彦九郎為昌(北条為昌)が継いだ。 為昌の母は兄氏康(ujiyasu)と同様、養珠院殿である。 氏綱の正室であった事は確実で二人の男子を生んでいる。
  為昌は、永正十七年(1520)に、小田原城で生まれている。  叔父の氏時が鎌倉の玉縄城で死没したが、嫡男がおらず本城の氏綱は急遽次男彦九郎を元服させ為昌と名乗らせ氏時の跡を継がせ第二代目の玉縄城主に就任させた。(12歳)
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**運慶小辞典
   
    **幕府第二代執権北条義時発願の運慶作・大倉新御堂薬師如来像を供養。 『吾妻鑑』・(建保6年)の記述から・・・・。
大倉薬師堂は鎌倉末期に真言宗・覚園寺として現在の場所に移っている。  北条義時建立の薬師堂は消失しており、その時に運慶によって造立された薬師三尊・十二神将も当然焼失している。  室町期に再建された薬師堂(茅葺き)は現存しており、薬師三尊・十二神将も再建されている。

 【薬師三尊】
●薬師如来坐像【180㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●日光菩薩立像【150㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●学校菩薩立像【150㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
 【十二神将】
●毘羯羅大将(子神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●招杜羅大将(丑神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●真達羅大将(虎神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●摩虎羅大将(卯神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●波夷羅大将(辰神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●因達羅大将(巳神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●珊底羅大将(午神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●頞儞羅大将(未神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●安底羅大将(申神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●迷企羅大将(酉神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●伐折羅大将(戌神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)
●宮琵羅大将(亥神)【等身・木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】運慶工房鎌倉期焼失 覚園寺・再建(重文)

**十二神将は薬師如来の守護神。 室町期に再建された神将は150㌢~190㌢でほぼ等身大、すべてが異なった姿勢をとる。 仏師は朝祐(tiyouyuu)。 像内に残された銘文から1401~1411にかけて毎年一体ずつ造られた事が残される。 すべてが国の重要文化財に指定されている。

平成30年戊戌・庚申・乙未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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