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戦国時代

2018.07.06(11:00) 161

**戦国期の鎌倉

**二代玉縄城主・北条為昌

    元服式は加冠親を鎌倉代官の大道寺盛昌が務め、盛昌の昌の一字を偏諱(一時拝領)として与えられた。

   為昌は玉縄に加えて三浦郡、武蔵小机領を管轄し、相模川東部から多摩川までに渡る広い地域を支配する様になった。 この当時、北条領は江戸地域が最前線であった為、玉縄城は北条領支配において重要な役割を果たしていた。

   為昌は幼い城主であった為に、氏綱の娘婿の福島綱成(kusima・tunasige)が後見役を務めた。  為昌には北条一族の大部分が襲名している「氏」の通字がありませんが、理由は「元服式」の項で述べたので省略します。

  為昌六歳の頃(小田原城)、安房の里見氏が鎌倉に侵攻、北条軍と鎌倉八幡宮の周辺で戦となり、八幡宮一帯が焼けたと伝わります。  (里見記)

  鶴岡八幡の再建は氏綱によって天文二年(1533)に始まったが、『快元僧都記』に 「為昌彦九郎殿、築地十二間請け取る」 の記録があり、為昌が北条一門として工事に参加し、奈良・京都の宮大工から、伊豆・鎌倉の大工等と共に造営に携わった事が判る。

   天文四年(1535)、甲斐・山中合戦、翌年の入間川合戦などに、父・氏綱、兄・氏康(ujiyasu)(後の3代小田原城主)、叔父の宗哲と並んで一軍の将を務めた。  翌年には扇ヶ谷上杉氏の武蔵川越城(川崎)を攻略して武蔵中央部に進出、城代となる。 

天文五年9月、鎌倉周辺に大雨が続き、大洪水が頻発した為に、為昌は鶴岡八幡宮に祈祷を依頼し、その為に三浦郡大多和村を八幡宮領として寄進した文書が残される。  (鶴岡八幡宮文書)
  それにしても、初期北条氏時代には、『快元僧都記』などの史料に見える様な大地震や津波、大雨の洪水、落雷の被害、あるいは飢饉等が南関東地域に集中して頻発している。 郷村にとっては、戦乱と度重なる天災の襲来した、まさに地獄のような世相であったと思われる。 そのような中、新領主の北条氏に民衆が期待したのも無理からぬ事で有った。
   関東には縁もゆかりも無かった、いわば他国者である北条氏が強大な戦国大名に成長出来たのは、これらの天災や戦乱の後始末を見事に処理し、民衆の心を掌握した結果であると思われる。
 その中で為昌は、軍事・外交・行政のあらゆる側面において、氏綱。氏康父子を支える存在になっていたが、天文十一年(1542)5月、弱冠二十三歳で死去した。    (原因は不明) 

  為昌には実子が無かった為、北条綱成(tunasige)(福島氏)が為昌の養子となって、三代玉縄城主を継承しました。
玉縄城の外堀・・・・柏尾川
DSCN4050.jpg
玉縄城・鳥瞰図
玉縄城鳥観図
大手門付近・石塔
玉縄城址

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  **運慶小辞典

**承久元年(1219)正月に八幡宮にて暗殺された実朝供養の為に北条政子の発願による五大尊像を造仏する。 勝長寿院の傍らに創建された「五仏堂」 に安置された。
晩年期の運慶の造仏は将軍実朝や北条政子、北条義時、高野山の貞暁(頼朝・庶子)など、将軍家周辺の関係に特化している。 運慶の仏師としての地位が高まったからにほかならない。 頼朝周辺の支援による東大寺や東寺復興の造仏・修理への参加、その結果として、霊験性の高まりと、仏師としての最高位である法印への叙任などが反映していったのであろう。
 【勝長寿院・五仏堂(廃寺)】
● 不動明王坐像【120㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期焼失・未再建
● 隆三世明王像【170㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期焼失・未再建
● 軍茶利明王像【200㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期焼失・未再建
● 大威徳明王座像【140㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期焼失 ・未再建
● 金剛夜叉明王像【170㌢木造寄木造り彩色・彫眼(推定)】 法印運慶 鎌倉期消失・未再建
  **運慶は貞応2年(1223)12月11日に没します。  工房は湛慶によって引き継がれ、運慶を祖と仰ぐ仏師たちの活動は近世に至るまで続きます。  奈良・京都の大寺院での赫赫たる事績、鎌倉での活躍。  東寺での舎利出現によって付与された霊験性・・・・・・これらによって運慶の名は仏師の代名詞となり、現在に至るのです。

平成30年戊戌・庚申・己亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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