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戦国時代

2018.07.14(07:00) 163

**戦国期の鎌倉

**玉縄城主・北条綱成(第三代)

   北条綱成(tunasige)の治政の様子をレポートする予定でしたが、都合により今回は中止です。
   今週、撮影してきました玉縄城周辺の新しい映像をアップしますので、ご参考に!
長尾景虎(上杉謙信公)祖・長尾定景一族の墓    (鎌倉・日蓮宗久成寺)
長尾定景一族
長尾砦付近
長尾砦
大船観音寺  (鎌倉市・岡本)   
観音寺
城下・平井家住宅長屋門   (鎌倉市・城廻)
長屋門
早雲創建  曹洞宗・天獄院参道   (藤沢市・渡内)
天獄院・夏

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**運慶小辞典

    【北条政子の寺】・・・・伊豆・願成就院
阿弥陀如来坐像の、それまでの平安時代後期の作例にはあまり見られない「説法印」の形式に注目したい。   その形式は南都を中心に、奈良時代後半から平安初期に多く造られた、その初例として想定されるものに法華寺阿弥陀浄土院本尊がある。
 同院は天平年間に光明皇太后(聖武天皇妃)により発願され、我が国の阿弥陀浄土信仰を考えるうえで画期となる。  残念ながら本尊・建物は現存しない。 しかし、法華寺に残される阿弥陀如来の画像(国宝)は、阿弥陀浄土院本尊に由来するものと考えられている。
   その像容は、説法印を結び、頭の大きい堂々とした姿で描かれ、願成就院像を彷彿とさせる。  この阿弥陀浄土院像の説法印を結ぶ形式は、後に宮廷女性関係の造仏の規範となった。  桓武天皇の乙牟漏皇后一周忌像にも採用され、興福寺講堂の本尊として安置された。  
   その後、興福寺講堂は平安時代から鎌倉時代にかけて、南都の最重要法会の会場となった。  これに伴って同像も、南都を代表する阿弥陀如来像として認知されたらしい。  つまり、伊豆・願成就院阿弥陀如来像の形式や表現は、興福寺の僧でもあった運慶により、平安時代初期に発願された興福寺講堂像が参考にされた蓋然性が高い。  (瀬谷貴之氏)
  【説法印・願成就院阿弥陀如来坐像】 参考
説法印
阿弥陀如来坐像
                                                       資料・・・・・芸術新潮 2017・10号より

平成30年戊戌・庚申・丁未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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