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戦国時代

2018.07.22(07:00) 165

**戦国期の鎌倉

**玉縄城主・北条氏繁(第四代)

     三代玉縄城主・北条綱成嫡男として天文五年(1536)に生まれる。 名を善九郎といい、後に小田原城主・北条氏康の一字をもらい康成(yasusige)を名乗る。  綱成同様剛勇の将として各地を転戦、上野・平井城、上杉氏攻略の時、氏康の従って16歳で出陣、先鋒を務めたという。
   永禄元年(1558)父綱成と共に常陸下野方面にも出陣、綱成の補佐役として職務を代行する。  本城・氏康の許に越後の長尾景虎(kagetora)(上杉謙信)が武蔵・相模方面に出陣との情報が入り、各地の北条勢に防戦の準備が命じられ,玉縄城主の綱成は下総方面の備えとして有吉城の守備に就いた。   この時氏康は26歳の康成(yasusige)を玉縄城代とした。

   長尾景虎は3月中旬に上杉氏の名跡を受け継ぎ、上杉政虎(masatora)と名を改め、関東管領の地位と職務を名実ともに実行せんと北条攻撃を開始。 小田原本城を包囲、攻撃したが攻めきれず、鎌倉鶴岡八幡宮での関東管領就任拝賀式を行った。    (小田原城の守りも固いと思われるが、本来の目的は拝賀式だったはず?)

   景虎は拝賀式が終わり、岐路、北条康成(yasusige)の守る玉縄城を攻撃するも、小田原本城と同じく攻略できませんでした。
玉縄城・諏訪壇跡及び下     (鎌倉市・清泉女学院校内)
諏訪壇跡
諏訪壇下・堀

玉縄城近くに長尾砦が有る。 この長尾台は長尾景虎(上杉謙信)
の先祖の地。 鎌倉党長尾氏本貫地で鎌倉時代・宝治合戦で在地領主の長尾氏が討死。 その後長尾一族は越後に移った。

   元亀二年(1571)、小田原の氏康が没し、翌年に綱成より家督を譲られ、氏繁(ujisige)と改名、官名も父と同様左衛門大夫となり、第四代玉縄城主となる。
氏繁の活動はこれ以降拡大し、4代小田原城主・北条氏政(ujimasa)を援け、岩村城を支配。  天正五年(1577)には下総飯沼城を佐竹氏への備えとして築城。

    氏繁は剛勇の人だが教養人でもあり、特に絵画で、松の古木に止まる鷹の図が有名である。
氏繁は天正六年(1578)下総飯沼城で病の為43歳で没す。父綱成が63歳で健在の中の事である。 氏繁の母と妻(七曲殿)は共に岩瀬の大長寺に葬られる。
(七曲殿)菩提寺・浄土宗大長寺・山門    (鎌倉市・岩瀬)
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   **運慶小辞典

   運慶造仏事業の『空白期』と鎌倉幕府との関りについてレポートします。   
 
僅か二例の事績であるが、北条時政と和田義盛の造仏事業に運慶が携わった事は、その後の鎌倉幕府と運慶の関係の足掛かりになったと思われる。    この後、運慶は建久七年(1196)から康慶(koukei)と共に奈良・大仏殿内諸像の造仏を行い、翌年には東寺講堂諸像の修理をはじめとする東寺復興事業に一門の棟梁として従事する。
    東大寺と東寺の復興事業は、院(後鳥羽)を始めとする朝廷の依頼に、頼朝が協力して行われた。  運慶がこの事業で、造仏の中心的役割を果たせたのも、鎌倉幕府周辺の事業を行ってきた賜物であったに違いない。

    一門の棟梁として立つ以前、常楽寺の造仏(文治五年・1189)から大仏殿内の諸像再興事業(建久七年)が始まるまでの約七年間、運慶の造仏の事績は確認できず 『空白期」』 となっていた。
しかし、この 『空白期」』 を埋める作品が、近年見いだされた真如苑所蔵の大日如来像である。   京都・円城寺像と同様  『智拳印』 を結ぶ。
   同像は、既に運慶作の可能性が指摘される栃木・光得寺大日如来像との作風の比較や、有力御家人・足利義兼(yosikane)が、建久四年にに供養した旧樺崎寺下御堂像(kabazaki)にあたる可能性が高い。    この新発見は、運慶の 『空白期」』 の中間を埋めるものとなった。   そして建久四年頃、関東に運慶が拠点を持っていた可能性を高める事にもなった。
  
〇 大日如来坐像【61・6㌢木造寄木 漆箔 玉眼】 運慶  鎌倉初期・重文 東京・真如苑蔵
真如苑・大日如来
平成23年「運慶」中世密教と鎌倉幕府・図録より

平成30年戊戌・庚申・乙卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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