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戦国時代

2018.07.26(07:00) 166

**戦国期の鎌倉

**五代玉縄城主・北条氏舜(ujitosi)

  北条左衛門大夫氏舜については残存文書がほとんどなく、不明な点が多い。  父の氏繁は玉縄衆として北条宗家の領土拡張計画の先兵として活躍し、岩村城(現・岩槻)領の支配を行ったり、下総飯沼城(茨城・猿島郡逆井)を築き、常陸の佐竹義重(yosisige)を中心とする北関東連合に対する下野・常陸への最前線基地としたりした。

   この飯沼城普請には、藤沢から森杢之助(mokunosuke)配下の大鋸引衆(oogabikisixyuu)が呼び寄せられた。
   佐竹十九代義重(yosisige)は元亀元年(1571)下総岩井で北条軍二万の兵を僅か5千の兵でで打ち破り、「鬼佐竹」「坂東太郎」 と周辺の諸将に恐れられた部将である。

   天正五年、四代小田原城主・北条氏政(ujimasa)が小田原より出陣し佐竹勢と合戦するが勝負はつかず、秋口まで在陣し北進する地盤を固めた。 この合戦に北条氏舜が出陣したかは記録は無いが、おそらくは玉縄城主として合戦に参加して居ると推測する。

   越後の上杉謙信が佐竹氏と呼応して出陣命令を下すが、天正六年の3月に春日山城にて49歳で死去する。  その3か月後の6月には父、北条氏繁も飯沼城にて43歳にて病死した。 これまで父・氏繁を補佐していた嫡男・氏舜は、祖父・綱成が玉縄城にて健在であった為、飯沼城主に留まる。
玉縄城主・北条氏繁(四代)出陣の図    (三つ鱗紋の旗印)
出陣・氏繁
第三代玉縄城主・北条綱成菩提寺・曹洞宗・龍寶寺山門     (鎌倉市・植木)
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  氏舜には後の六代城主北条氏勝(ujikatu)と直重・直胤・繁広という4人の弟と妹2人がいたが、玉縄城主も氏舜が継ぎ、さらに岩月城(岩槻)の城代に就任。飯沼城は氏勝が城主となる。

氏舜文書は天正五年から八年に限られ、この4年間が氏舜の玉縄城主時代であると今は見られている。 次の玉縄城主となる氏勝の初見文書は天正十一年のものであり、天正八年から十一年の間に氏舜は弟の氏勝に家督を譲り隠居もしくは病没したものと推定される。 氏舜の死亡年・墓所・戒名等は不明で、玉縄北条氏一族の中でも不明な点が多く、子孫の存在も不明である。

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**運慶小辞典

    鎌倉・永福寺(廃寺)の造営が「吾妻鑑」 によれば文治五年(1189)12月~建久五年(1194)12月に行われた事は注目される。 
運慶はその 『空白期』 に、鎌倉幕府の重要寺院である永福寺の造像に、鎌倉に於いて従事していたのではないだろうか・・・・。    永福寺は頼朝が奥州遠征を行い、平泉で目のあたりにした諸寺院を摸して、その犠牲者を弔う事を目的に建立された。 もし、この一大事業に運慶が携わっていれば、その後の鎌倉幕府との密接な関係も了解されよう。

   「吾妻鑑」には「雲慶」(unnkei)=運慶が、奥州平泉の藤原基衡(motohira)が発願した毛越寺金堂(moutuji)(号円隆寺)の丈六薬師像と十二神将を造像したとの記述がある。   この記事については、従来運慶の活躍年代と重ならず、「吾妻鑑」の伝説的な記述、あるいは誤謬とされ、あまり重要視されなかった。  しかし、永福寺は、その毛越寺金堂を模した事が知られる。   大きく、推測すれば「吾妻鑑」の毛越寺と運慶の記事は、永福寺造像に運慶が従事したことを反映した可能性がある。
『転法輪鈔』 の記載から永福寺・薬師堂の薬師如来に両脇侍、不動・毘沙門、十二神将の運慶及び運慶工房による造像の詳細をレポート(推定)します。

● 薬師如来坐像  【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
● 日光菩薩立像  【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
● 月光菩薩立像  【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
● 毘沙門天立像  【180・0㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
● 不動明王立像  【180・0㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】  運慶工房 室町期焼失・未再建
 【十二神将像】
● 毘羯羅大将立像 【子神・等身・木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
             ┃  中間10神将省略しています。 (鎌倉・覚園寺    十二神将像参照)
● 宮琵羅大将立像 【亥神・等身・木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建

**永福寺・・・・・創建以降度重なる戦火・災害によって消失し、室町末期には廃寺となったようだ.。・・・近年、二階大堂、阿弥陀堂、薬師堂の基壇及び前庭池の浄土式庭園が再現され、史跡公園として市民に開放されています。
     「吾妻鑑」と『転法綸鈔』の記載から詳細が判明する薬師堂の造仏を再現(推定)。
中央に薬師三尊像
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向かって右手不動明王・6神将
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左手に毘沙門天・6神将
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(資料)   「芸術新潮」 2017・10月号より 

平成30年戊戌・庚申・己未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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