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戦国時代

2018.07.30(07:00) 167

**戦国期の鎌倉

**六代玉縄城主・北条氏氏勝(ujikatu)

    北条氏勝は永禄元年(1558)は、4代城主氏繁の次男として出生。  氏勝が玉縄城主の官名である左衛門大夫を名乗った文書初見は天正十年(1582)五月のもので、天正八年から十年の間に五代城主である兄・氏舜は氏勝に家督を譲り隠居もしくは死没したものと推定されている。
玉縄北条氏歴代城主・供養塔・・・・ 【綱成・氏繁・氏勝】
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玉縄・・・・・・(鎌倉市)
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玉縄城大手門下「七曲り坂」
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天正十年は北条氏にとって激動の年であった。  二月には関東における永年の宿敵である常陸国・佐竹氏十九代義重(yosisige)の嫡男義宣(yosinobu)が元服し、常陸統一に近づく絶頂期を迎えていた。  織田信長・信忠父子が信濃から、徳川家康が駿府から甲斐に侵攻し武田勝頼は甲州大和村、田野にて自刃し武田家が滅亡。

   織田信長・信忠が明智光秀の謀反により本能寺にて殺害された。   政局は一気に羽柴秀吉による天下統一に向かう。

   北条氏勝は関東の諸情勢が大きく変化してきたこの時期に城主に付いたのである。   天正十二年(1584)にはいると羽柴秀吉と石田三成は上杉景勝・佐竹義重らと誼を通じた。 翌年、秀吉は北条氏の宿敵佐竹氏に北条方との戦を支援し、関東諸氏との通好をを促進、関東出陣の意向を宣言した。  数か月後には秀吉は従一位関白叙任となり天下統一が加速された。

   関白・豊臣秀吉は「関東奥両国惣無事令」 を発した。   これは関東・奥州における大名領主間の交戦から農民間の喧嘩刀傷沙汰に至るまでの抗争を厳禁する平和令であっが、 その目的は大名の領地拡大を阻止し、豊臣政権が全領土を掌握する事にあり、争いごとは全て関白が介入し、秀吉が裁定を下し、不服のある者は朝敵として討つという法律であった。

中央では豊臣政権が強化され、諸大名が続々と臣従を誓う中で、玉縄北条氏の本家である小田原の北条氏政(ujimasa)・氏直(ujinao)父子はこれに応じず、秀吉は北条氏を敵対者とみなし、北条氏は孤立してゆくことになる。

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**運慶小辞典

 **永福寺・二階堂の諸仏

 *建久年間前半は「吾妻鑑」に永福寺造営の記事が頻繁に記載される。  三つの仏堂を翼楼でつないだ大寺院でした。 
   建久三年(1192)に二階堂、四年に阿弥陀堂、五年に薬師堂が供養された。   しかし、『転法輪鈔』 には二階堂・阿弥陀堂にに関する記載は無いらしい・・・。 薬師堂に関しては、先にレポートした通り、詳細が記載されていたのであるが?。 
  大胆な推理をすれば二階堂、阿弥陀堂に関する『転法輪鈔』 の記載は消失または散逸してしまったのでは無かろうか?       頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺、勝長寿院、永福寺の三大寺院に列されれるこの寺院の中心、二階堂・阿弥陀堂の供養に大仏師運慶の活躍が推理される。 
 

   二階大堂、釈迦三尊像
● 釈迦如来座像 【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
● 騎馬踊・文殊菩薩【180㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
● 乗象・普賢菩薩 【180㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房  室町期焼失・未再建

*以上運慶作品と推定される消失作品を示した。  しかし、再現された永福寺のC・G映像でも明らかであるが、この二階堂の規模に対し、薬師堂17体の諸仏供養と比較しても不自然であるのだが・・・・・?。
  永福寺再現CGによる画像・中央二階堂・・・・奥が薬師堂、手前が阿弥陀堂
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永福寺・二階堂・・・・・・中尊・釈迦如来坐像(推定)・・左側
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平成30年戊戌・庚申・癸亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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