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戦国時代

2018.08.03(07:00) 168

**戦国期の鎌倉

**山中城籠城戦・城普請

    豊臣秀吉による二回目の惣無事令が、関東及び奥羽の諸大名に発せられて以降、秀吉は完全に北条氏を敵対者とみなす。  小河原城主・北条氏直(ujinao)は秀吉の九州平定の次の目標は関東である事を見極め、緊張の極みに達していた。
   天正十七年(1589)の10月、の名胡桃城(nagurumi)奪取事件で合戦必至となり、総動員令が発せられた
   11月になって秀吉は北条氏直に対し宣戦布告を出し、諸大名に小田原(関東北条領)への出陣命令を発し、た。  北条方では秀吉軍の侵攻に対する策として箱根外輪山山麓の山中に(標高500㍍の地点)、北条流築城術で新たに城を構え、城主に松田右衛門太夫康長(yasunaga)を配置したが、松田氏は小勢の為、北条宗家の常に最前線にあった六代玉縄城主・北条氏勝を添えた。
   氏勝は与力侍の玉縄衆、間宮豊前、朝倉能登ら四千の城兵と共に山中城籠城戦のための準備と城普請にかかり、玉縄城留守役は堀内日向守勝光に託す。

   天正十八年(1590)3月、秀吉は沼津に着陣し、豊臣秀次を大将とした中村一氏(kazuuji)・山之内一豊(kazutoyo)ら圧倒的に優勢な五万余騎で攻め上った。
  激戦の中で松田康長と間宮豊前(buzenn)ら主だった玉縄衆は一歩も引かず討ち死。  日も暮れて氏勝は、戦いの習いで一度や二度負ける事は恥ではないが、城が落ちては面目が無い、このまま小田原に帰参するのは無念であると考え、間宮豊前の孫、彦四郎(十五歳、後に家康に認められ旗本に取り立てられた)を始め氏勝の弟、新八郎直重(naosige)・新蔵繁広ら一族郎党十八名すべて髻(motodori)を切り、箱根山中間道を通り、小田原の久野にぬけ、玉縄城に帰城、城では山中城落城の報を耳にした直後、氏勝が帰還した事で喜びに包まれたという。 
玉縄城・長尾砦跡    (横浜市栄区・長尾台)
長尾砦2
長尾砦跡付近を流れる・外堀柏尾川     (横浜市栄区長尾台)  
 柏尾川
柏尾川の更に外側を東海道・横須賀・根岸・貨物線の各線が走り、玉縄城は難攻不落の城であった。??
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氏勝は玉縄領内の寺社に対し、兵糧米の徴発や、敵が見えたら加勢する事を厳命し、玉縄城守備兵七百騎にて籠城戦を覚悟する。

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**運慶小辞典

*永福寺・阿弥陀堂の諸仏

   *二階堂の項でも記述したが、やはり、阿弥陀堂についても『転法輪鈔は何も残していない・・・・・・。   例によって瀬谷貴之氏推測による運慶の造仏供養の推定を試みる。

  【阿弥陀三尊像】
● 中尊・阿弥陀如来座像【240㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
● 左脇侍・観音菩薩立像【180㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建
● 右脇侍・勢至菩薩立像【180㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 運慶工房 室町期焼失・未再建

**廃寺となった永福寺は池を配した浄土庭園を備えた壮大な寺院であった事が発掘調査から覗える。  残念ながら度重なる火災や災害によって、室町期の後半には廃寺となったようだ。   現在は基壇と苑池が再現され史跡公園として公開が始まりました。

【永福寺・阿弥陀堂中尊・阿弥陀如来坐像】  向かって右側

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平成30年戊戌・辛酉・丁卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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