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戦国時代

2018.08.07(07:00) 169

**戦国期の鎌倉

**続・小田原北条攻め(秀吉)

   玉縄城が不戦開城を決した説として一般的に伝わっているのは、徳川家康の家臣本多忠勝配下の、都築弥左衛門(tuzuki)、松下三郎左衛門の両名が城主の北条氏勝と知人であったから、この二人を使者として降伏を説得したのだが、当然承知をしなかった。
  しからばと、三郎左衛門と同族で、龍寶寺の住職をしている龍達(了達)和尚が、氏勝と師弟の関係にあったので、三郎左衛門は、この龍達和尚に相談し、氏勝を説得したという説である。

曹洞宗・龍寶寺山門・本堂  (鎌倉市・植木)
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ところが曹洞宗・龍寶寺は、玉縄城開城の35年後の寛永二年(1625)に寺号変更し現在地に移転したのであり、開城時点では玉縄・山居の地に大応寺として存在していた。  この寛永二年には、徳川家光より松平正綱(masatuna)が玉縄領22,200石を拝領し、大名として玉縄に陣屋を構えている。
   この説に基づき玉縄城開城82年後の寛文12年(1672)に江戸神田鍛冶町・木屋作兵衛の「軍記物語」・(北条盛衰記)の根拠となっている。   一方、鎌倉市岩瀬にある大長寺・由緒書御調文書によると、氏勝が不戦開城を決意したのには、次のような事が根底にある。

*大長寺・・・・・綱成夫人の大頂院・4代城主氏繁夫人の七曲殿他一族の墓所がある

氏繁夫人・七曲殿縁の七曲曲輪・曲輪門
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徳川家康は、徳川家菩提寺・三河国岡崎の大樹寺の住職・登誉上人の話から、相州玉縄北条氏鎮護国家祈願所であり、菩提寺でもある浄土宗・大頂寺(大長寺)四世住職源栄上人の存在を知る。  源栄上人は徳川家檀縁の浄土宗・観智国師の弟子にして俊才の学匠であると聞いた事から、本田忠勝を通じて家康の氏勝説得の内命が下った。

*大樹寺・・・・・松平家代々の墓所であり、家康の父・松平広忠(hirotada)の墓所もある

次回の更新8月14日予定





**運慶小辞典
   
**鎌倉・永福寺の造仏作業を終えた、運慶と運慶工房の仏師たちは、奈良東大寺の造仏に携わるため建久六年(1195)の春までには西上している。  一方で工房の仏師の中には、その後も東国に留まった者がいる事は遺作から明らかです。
 運慶と工房の人たちは10年に渡って東国にあり、将軍、大御家人から中小御家人まで、幅広い需要にこたえて造仏に励みました。  そこで勝ち得た信頼が故地南都で大きく実を結ぶ事になるのです。

  そこで今回は、その東国に残った、居残り組運慶工房の造仏作品を紹介します。  
   【横須賀市・満願寺】
〇観音菩薩立像【224・2㌢木造・彩色・玉眼】運慶工房鎌倉初期・現存(重文)萬願寺蔵  浄楽寺諸像と造形近い
〇地蔵菩薩立像【203・7㌢木造・彩色・玉眼】運慶工房鎌倉初期・現存(重文) 々         々
満願寺・観音・地蔵の両菩薩像
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(資料)・・・・・・・・芸術新潮・・2017・10月号より

*三浦半島の豪族・三浦義明の子息佐原(三浦)義連(yositura)の発願によって創建され、同時に観音・地蔵の両菩薩が供養された。  高く結い上げた宝鬢、男性的な面相、量感に富んだ体躯は武芸で鍛えた義連の力強さを表現しています。

平成30年戊戌・辛酉・辛未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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