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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.12.02(20:33) 17

*頼朝挙兵

平治の乱を義朝と共に戦った関東武士たちは、その後どうしたであろうか。
義朝が近江・瀬田辺りを落ちているころ、同道した波多野・三浦・熊谷・足立・上総介・等に暇を取らせ関東へ下らせた。この中に三浦義澄の名もあるが、想像であるが、彼は三浦氏と縁の深い義平(義朝・嫡男)と行動を共にしたいと願い出たと思われるが、義朝には義平を平家方の手薄な北陸に逃がし、再起を図らせるという構想がすでにできていたと思われ、それを認めなかったと思われます。
三浦義澄はじめ前記の関東武士たちは、本拠地に戻って間もなく、主君義朝・義平・朝長親子の死と、頼朝の伊豆配流という知らせを聞くことになる。  
鎌倉幕府開府当初・三浦氏当主  三浦義澄公墓所(横須賀市)
三浦義澄公・墓所

棟梁清和源氏の没落は、関東武士の生き方にも大きな影響を与えた。  平治の乱には参戦しなかったと思われる相模鎌倉党では、義朝ー三浦ラインに近かった大庭景義(kageyosi)に代わって、弟の景親(kagetika)が鎌倉党を引き継いだ。  武蔵・秩父党でも、惣領の畠山氏が落ち目になり代わって河越氏が惣領権を獲得したようだ。   三浦氏にしても平家の催促に応じて、番役を勤仕しなければならなかった。
伊豆流人時代の頼朝はは源家再興・平氏打倒を胸中に秘めて雌伏していたのか、源家再興など念頭になく念仏三昧の日々を過ごしていたのか・・・、いくつかの説があるが、ここでは雌伏20年説を取りたい、その根拠は流人でありながら京都情勢、特に平家の動向に関心を払っていた事や、伊豆や相模の武士らと狩猟などを通じての交流を続けていた事等である。
一方で、伊豆や相模・房総等の武士の方が頼朝に寄せる思いはどの様なものだったかを考えてみたい。   まず思い起こすのが以前にも記した三浦大介義明の言葉 「吾れ源家累代の家人として、幸いにその貴種再興の秋に逢うなり」 に代表される思い,と思われるが如何・・・・・・。 また、これと似たような言葉は千葉介常胤(tunetane)の言葉にもある。「常胤の心中、領状さらに異議なし、源家中絶の跡を興さしめるの条、感涙眼を遮り、言葉の及ぶ所に在らざるなり。」
先の義明の言葉と云いこの常胤と云い、彼ら源家累代の家人をもって任じる武士たちは、頼朝に対し源家再興を心から期待していたのである。  流人時代の頼朝が武士たちと狩猟を通じての交流を持っていたと述べたが、おそらくはその様な機会に、頼朝は義明や常胤に代表されるような源家家人の熱い思いを意識していたに違いない。
石橋山合戦の後、衣笠城攻防戦で戦死・三浦大介義明 菩提寺‣満昌寺(横須賀市)
三浦義明公・菩提寺

三浦義明公(義澄・父)墓所  (満昌寺・横須賀市)
三浦義明公・墓所

義明らが源家再興切実に願ったのは何故であろうか。
平家にあらずば人にあらず、といった風潮になった世に源家累代の家人たちは平家の催促により番役勤仕のため上京する負担を負った。さらに迷惑に感じた事は、平家の国守・目代や平家被官になっていた武士たちの日常的な圧力ではなかろうか・・・。   次回に続く
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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