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戦国時代

2018.08.14(07:00) 170

**戦国期の鎌倉

**玉縄城無血開城

    鎌倉市岩瀬の大長寺に伝わる「大長寺由緒書御調文書」 によると、大長寺・4世住職の源栄上人は、大長寺とと同じく玉縄城三代城主・北条綱成開基の玉縄山居にある大応寺の住僧・良達(了達)上人と図り、北条氏勝に玉縄城の不戦開城を説得し、氏勝は徳川家康の要請を受け入れ、無血開城を承諾した。

 氏勝は天正十八年(1590)、源栄上人と良達上人に伴われ、小田原・酒匂口の家康陣所に行き、開城の旨を伝え、家康の仲介で豊臣秀吉本陣(石垣山城)・(一夜城)に伺候した。

   六代78年続いた鎌倉・玉縄城は無血開城し、氏勝は薙髪して恭順を誓った。  これによって秀吉より助命され、家康の配下に属する事になった。  玉縄城は家康の家臣・水野織部正忠守の預かりとなる。  氏勝は昨日まで味方、北条軍武蔵方面に点在する支城攻撃に参陣する事になる(氏勝32歳)の再出発である。
後北条氏(小田原北条氏)ゆかりの寺院 曹洞宗・天獄院 山門・参道
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   石田三成(秀吉軍)の軍勢が、武蔵の忍城(行田市)攻略に着陣。 北条氏勝も昨日までの宿敵大谷吉継・佐竹義宣・長束正家・宇都宮国綱・真田昌幸らの武蔵・上総・下総衆、二万三千の攻めての中に、忍城大宮口に参陣した。 
一方で、忍城側は城主・成田氏長が小田原城に籠城しており、氏長の叔父・成田泰季が城代を務め4,000の守備兵であった。

    その小田原城は天正十八年七月に開城した。 秀吉が小田原城に入ったその時期に家康の関東移封が伝えられたようだ。
   氏勝が参陣している忍城は、小田原開城後に開城家康は江戸に入り、氏勝も共に江戸に入った。  間もなく、北条氏勝は下総岩富領一万石を与えられ、譜代の列に加えられた。     

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   **運慶小辞典

**次の東国居残り組運慶工房の造仏作品は藤沢市・養命寺に伝わる、薬師如来坐像です。  引き締まった顔立ちと量感のある体躯から運慶工房の作とされる。 御家人・大庭景義(kageyosi)の息子景兼(kagekane)の守護仏で、近くの薬師堂の本尊だったらしい・・・。   12年に一度の寅年御開帳の秘仏として鎮座する。 日光・月光の脇侍は消失してしまったのか不明だ。

〇 薬師如来坐像 【88・5㌢木造寄木造り・漆箔・玉眼】 運慶工房 建久8年現存 (重文) 養命寺蔵
   【養命寺・薬師如来坐像】
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(資料)           芸術新潮・2017・10月号から

*作者は具体的には不明であるが、工房のうち東国に留まった仏師達の作であると考えられている。   少なくとも、兄弟子?・実慶 は残留組であり、その周辺の作品であろう・・・・。

平成30年戊戌・辛酉・戊寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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