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戦国時代

2018.08.18(07:00) 171

**戦国期の鎌倉

**譜代大名の列

    天正十八年8月に、岩富城(佐倉市)に入り、翌年には秀吉の太閤検地に伴い、岩富領の検地をおこなっている。 氏勝はこのころ、家督を嫡男・善九郎氏明(ujiaki)に譲っているが、豊臣秀吉は朝鮮出兵を諸大名に伝え、文禄の役が始まった。

    氏勝は家康配下の先兵として、九州肥前国(佐賀松浦郡)の名護屋城(nagoya)に着陣。 松浦半島波戸岬先端に近い位置に陣営を構えたが、渡海はしなかった。  その後一年余りの参陣であったが、自国の領国経営が充分にできない状況であった。

 慶長元年(1596)に、嫡男氏明が病没したため、氏勝が再度当主となった。  家康が太閤の命により会津・上杉景勝を攻撃するため下野国(栃木)小山に出陣した。 その時も氏勝は弟の繁広と共に参陣し、関ヶ原の戦いには家康に従って三河岡崎城、尾張犬山城を守備、中山道を進軍する徳川秀忠(徳川二代将軍)に御前(食事)を饗応し、馬を献上して、羽織を賜り、合戦後家康の入洛にあたり丹波亀山城の守備に就いている。

慶長十三年(1608)、このころ氏勝は病を患っていたようだが、領内の真言宗・寶金剛寺(佐倉市)に袈裟を寄進した記録が残される。  十六年には病は回復せず岩富城内にて帰らぬ人となった。 波乱万丈の53年間であった。 遺骸は寶金剛寺に葬られ、法号は『清覚院殿恵公居士』・・・・・寶金剛寺     『上獄院殿角翁良牛大居士』・・・・・龍寶寺     『法輪院殿窓雲常観大居士』・・・・・北条家過去帳  の三種の位牌が残される。 
鎌倉・玉縄 龍寶寺山門     (鎌倉市・植木)
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伝・北条綱成・氏繁・氏勝三代城主の墓石     (鎌倉市・植木龍寶寺】
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     **運慶小辞典

**次の東国居残り組の遺産は、「運慶願経」 にも結縁者として名を連ねる仏師・実慶(jitukei)の作、『阿弥陀三尊像』です。

〇 阿弥陀如来坐像【89・1㌢木造割矧造り漆箔玉眼】仏師・実慶 建久年間・現存(重文)かんなみ美術館蔵  
〇 観音菩薩立像 【110㌢木造割矧造り漆箔玉眼】 仏師・実慶建久年間・現存(重文)かんなみ美術館蔵
〇 勢至菩薩立像 【110㌢木造割矧造り漆箔玉眼】 仏師・実慶建久年間・現存(重文)かんなみ美術館蔵
   【阿弥陀三尊像】
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 (資料)          芸術新潮2017・10月号から 

*この三尊像が伝わる静岡・桑原の地には、頼朝挙兵直後に戦死した北条時政の嫡子・宗時(munetoki)、(政子・義時の兄)の墳墓堂があった事から時政発願の像である可能性を見る。   尚中尊・阿弥陀如来像は来迎印を結ぶ。
  仏師・実慶は康慶(koukei)・(運慶・父)の弟子と考えられ、運慶から見て兄弟子と位置づけられ、慶派に属する仏師と思われる。(私見)

平成30年戊戌・辛酉・壬午
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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