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戦国時代

2018.08.22(07:00) 172

**戦国期の鎌倉

**玉縄北条氏・家名断絶

   氏勝没後、慶長十七年(1612)6月氏勝の弟北条常陸介新左衛門繁広が没した。    遺骸は岩瀬・大長寺の墓所に送られ、母の七曲殿、祖母の綱成夫人・大頂院と同じ墓所に葬られた。  嫡男・北条安房守氏長(ujinaga)は、将軍家旗本として家禄の継承を許された。

    岩富城で没した氏勝の、玉縄北条宗家は、家康・秀忠の命により氏重(ujisige)・(保科正直(masatada)の四男、母は家康の異父妹、文禄四年生まれ十七歳)が養子となり、北条氏を継ぎ、従五位下出羽守に叙任された。その年の末に下野・富田(栃木・大平町)転封され、下総岩富城は廃城とされた。 

    大阪冬の陣で氏重は、和泉岸和田城を守り、夏の陣にも出陣している。  さらに駿河久能山城に転封、大番頭となる。
寛永十七年(1640)、下総関宿城(野田市)に二万石にて転封。 さらに遠州・掛川城に三万石で転封となった。


    万治元年(1660)、六十四歳で没する。  嗣子なきため、玉縄城築城以来脈々と続いた玉縄北条家もついに家名断絶となった。   北条氏重が掛川城に転封になった時、龍寶寺の玉縄北条氏の墓所を掛川城下に移転して檀家を離れた。  間もなく城下に氏勝法号の上獄寺を創建して菩提寺とした。   しかし、ここに氏重の墓はあるが、龍寶寺から移したと言われる玉縄北条家三代の墓は無い。

   完


    **運慶小辞典

**次の居残り組の作者は康慶(koukei)(運慶・父)の弟子と言われている宗慶(soukei)です。  埼玉県加須市の保寧寺(honeiji)に伝わる【不動明王および二童子像】ですが、現在は保寧寺にはなく個人の所蔵となっているそうです。
    保寧寺にはやはり建久年間に造られた阿弥陀三尊像(重文)(作者は不明)が伝わり寺宝となっている。   加須の地は武士団・武蔵七党の根拠地だったので、仏師たちへの造仏の依頼は多かったに違いない。

〇 不動明王坐像【76・4㌢木造寄木造り彩色・玉眼】 仏師・宗慶 建久年間・現存(重文) 個人蔵
〇 矜羯羅童子像【60㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 仏師・宗慶 建久年間・現存(重文) 個人蔵
〇 制吒迦童子像【60㌢木造寄木造り彩色・玉眼(推定)】 仏師・宗慶 建久年間・現存(重文) 個人蔵

 【不動明王及び二童子像】
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(資料)       芸術新潮 2017・10月号より

*【運慶願経】の奥書・結縁者の名を眺めると、快慶や宗慶・実慶など慶派の仏師たちに続いて「阿古」 「岩」 「千歳」 など女性らしい名が記載されている、工房に女性の名前が・・・・地味な裏方の存在が見えてきます、工房に共に働く制作現場を連想させてくれます。

平成30年戊戌・辛酉・丙戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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