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戦国時代

2018.08.26(07:00) 173

**戦国期の北条氏(小田原)

**戦国大名への径
    
    小田原北条氏は氏綱(ujituna)(小田原城主)以来、伊豆・相模から武蔵へと支配領域を広げ、更に上野・下野・下総・常陸の領主たちを傘下に収めてきた。
   鶴岡八幡宮造営事業が行われている天文六年(1537)ころ、八幡宮に対し「家門と分国の安泰」 を祈祷する様依頼している。  この「家門」 と「分国」 がセットになっている事が、実は重要であり、  戦国大名領国とは何かを考えるキーワードらしい・・・・・・。

「分国」 とは、頼朝の鎌倉時代、関東御分国のように、荘園制下の知行国、朝廷の支配権が分けられた国の意味であり、幕府の地方支配責任者である守護の管轄国という意味で使われるようになった。
  北条氏は、支配下に置いた地域の守護に任命されていなかったので、その様な意味で使われているわけでなく、もう少し多義的に使われていたようだ。

     それでは、「家門」 とは何だったのか。当然北条家の事である。 「家」 は、当主の一族と従者によって構成される血縁・主従の人的結合体で、当時の武家社会では「家中」 とも呼ばれた。 「家中」 は時代劇などでも馴染のある言葉だが、戦国大名の「家中」 には、私達が思い浮かべる近世の「家中」 とは違った性格があったようだ。
   近世大名の家臣はすべて大名の「家中」 に編成されており「家中」 は家臣団の総称である。
     それに対し戦国大名は、家臣のすべてを「家中」に含んでおらず、独自の「家中」を形成する有力国人領主【国衆(kunisixyuu)】的家臣も抱えていた。  従って、戦国大名と呼ばれる権力は、厳密にいえば戦国大名「家中」 を中核とする家の連合勢力だったと言える。

    北条氏の場合も、相模・伊豆という中核地域の周辺には武蔵の忍(osi)城主・成田氏をはじめ多くの国衆的家臣が居た。 彼らは自立的所領支配を展開しており、大名との主従関係も北条氏「家中」 メンバーに比すればずっと穏かで、離反の危険性も大きかった。 だからこそ大名「家中」は結束する必要があり、「安泰」 なしには「分国」 統治は安定しないのである。

このように、戦国大名支配の仕組みを理解するには、領国を統治する公権力的側面と、主従制によって家臣を編成する側面とを統一的に捉えるえる事が必要である。

**小田原北条・二代氏綱(ujituna)が家督を相続した前後、永正年間初期は全国的にみると、各地で内乱が繰り広げられて勝者が戦国大名となり(十六世紀前半)、さらに大名間の領土紛争が激化し、戦国争乱の時代であった、東国も例外ではなく、他地域と比べても激しい動乱の展開する時代だった。    

*この動乱の時代、新興勢力の北条氏が台頭し、古河公方足利氏や関東管領上杉氏ら伝統勢力を打ち破って関東に大領国を形成し、豊臣氏との争いに敗れ滅亡するという流れで捉えてきた。   しかし、戦国の争乱は単なる領土の争いではなく、中世に替わる新しい社会秩序を作り出す運動でありその主導権を巡り「村」 「郡」 「国」 といった単位で重なり合って抗争を展開していた。   北条氏は、そうした動きを取り込む事により、広大な領国を形成したのである。
萩の寺・鎌倉海蔵寺     (鎌倉市・扇ヶ谷)
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    **運慶小辞典

**伊豆の古刹・修善寺の本尊・大日如来坐像。    保存修理の際、像内の銘文が確認され、治承四年(1210)大仏師・実慶の制作と判った。 同時に像内から落飾した女性の頭髪とかもじ(かつら)が発見された。

〇 大日如来坐像【103・6㌢木造寄木造り漆箔玉眼】 仏師・実慶 治承四年・現存(重文) 修善寺蔵

  【伊豆・修善寺 大日如来坐像】
修善寺・大日
(資料)   平成30年 金沢文庫・特別展 「運慶」より

* 「吾妻鑑」 によれば、本像が造立される四十日前には、頼家の妻である辻殿が落飾している。  このことから、本像は、二代将軍・頼家の供養の為に、辻殿が最晩年に発願し、間もなく没して、造立されたもので、髪やかもじは、辻殿のものと推定されている。

平成30年戊戌・辛酉・庚寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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