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戦国時代

2018.08.30(07:00) 174

**戦国期の北条氏(小田原)

**早雲(伊勢宗瑞)から氏綱へ

     「北条早雲」 は本名を伊勢新九郎盛時という。    盛時は伊豆侵攻の頃に出家して、「早雲庵宗瑞」(souzui)を名乗るようになり、永正十六年(1519)に亡くなるまでこれを続けた。

  苗字を伊勢から北条に改めるのは息子の氏綱の代になった大永三年(1523)の事で、盛時(宗瑞)自身が「北条」 を称した事は無い。

     小田原城を入手したころ、宗瑞はすでに60歳を越え、嫡子の氏綱は成人していた。  しかし、宗瑞はいまだ相模を制圧していない状況下で、家督を譲る事なく老骨に鞭打ち、今川氏親を助けて三河に出陣、一方で上杉方の三浦氏を追い詰めるなど、最前線で戦っていた。
   ただ、永正九年(1512)以降になると、両者が連署して制札を出したり、氏綱だ出した文書に宗瑞が袖判を加えたりするようになり、少しずつ権限を委譲して云ったようである。  そして、三浦氏最後の拠点新井城を陥落させ、相模制圧に成功した時に、正式に家督を譲ったようだ。

    宗瑞は永正十六年8月、病の為伊豆韮山城で亡くなっている(88歳)。  亡骸は箱根湯本に建立していた早雲寺に埋葬された。 後に氏綱は、早雲寺の伽藍を増築して父の冥福を祈った。  湯本に菩提寺を置いたのは、箱根路(東海道)の支配権を示す狙いがあったと思われる。

  家督を継いだ氏綱が最初に行ったことは、印判状の発給だった。   伊豆の代官に宛てた諸役賦課手続きを定めた文書が初見、「禄寿應隠」(rokujiyuouin)と云う字を四角の枠で囲み、その上に虎が伏せる絵が描かれた印章が使われ、伊勢(後に北条)氏当主「虎の印判」 として、滅亡する天正十八年(1590)まで使われる。   印判状は、花押を据える判物に比べて簡便であり、大量発給に適している。  また、その分だけ薄礼で、発給者の権威の強さを示す象徴ともなる。
  初見の文書では、今後役を賦課する時は、虎の印判を捺した文書で伝えるので、代官の命令だけなら従わなくても良いと書かれている。  実際、虎の印判状は主として民生関係文書に使われた

**代替り検地

    小田原周辺や鎌倉で大規模な検地を実施した。  検地は、年貢・軍役などの役の負担者や負担量を確定するために行われるが、往々にして増分が算出されるので、実施される側にとっては迷惑な面もある。  しかし、土地に対する年貢取得権や耕作権を保証される事にもなる。 
       瑞泉寺(鎌倉・二階堂)     (八月)
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   日本の中世では、荘園制下の代官交代時の検注のように、そうした権限を有する者が変わる際に、土地調査が広く行われてきた。   この場合は、伊勢氏の当主が替わった事によるもので、「代替り検地」 と呼ばれ、以後も歴代当主によって行われた。これも、伊勢氏の地域権力としての地位を、広く周知せしめる事績であった。

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      **運慶小辞典

**この項では運慶作品の中でも特に運慶自身による造仏という事が証明されている作品を取り上げたいと考えています。
   まずは、20代の運慶が11ヶ月をかけて制作した端麗なデビュー作。  『大日如来坐像』 (奈良県円成寺蔵)・・・です。
大正九年に旧国宝に指定され、蓮華の天板裏から墨書銘が発見され、仏師・運慶によって製作された事が判明した。  銘文には「大仏師・康慶(koukei)実弟子運慶」 とあり、父康慶の受注した仕事を運慶が造仏したと考えられる。 また銘文の末尾には運慶の花押が据えられ、仏像に制作者である仏師が明確な意思を持って署名した最初期の事例として知られる。
才気溢れる青年仏師の作品にふさわしい溌溂とした雰囲気をたたえる。 平安期の優美なニュアンスが残るものの、現実の人間の体に学んだだろう写実性が見られる。
  通常の4~5倍の制作期間をかけており、頭髪や高く結い上げた髻にほどこされた(宝冠ごしに)緻密な毛筋彫りには念入りな仕事ぶりが覗える。        2011・02・11 於・金沢文庫「運慶展」 

〇 大日如来坐像【90・0㌢(等身)木造寄木造り漆箔玉眼】 仏師・運慶 安元二年・現存(国宝)
    奈良・円成寺所蔵  運慶作の根拠・・・台座天板裏の銘文と花押
円成寺・大日
(資料)    【特別展】 金沢文庫80年『運慶』図録より
  **大日如来とは
 ◆ 密教に於ける中心本尊で、宇宙の真理そのものを表す。 密教とは、大衆に向かって解りやすい言葉で説かれるそれまでの仏教に対して、師から弟子への秘密の教義とシンボリックな儀礼を伝授する、7世紀にインドで成立した大乗仏教のニューウエイブである。
 ◆ 大日如来には、「大日経」 で説かれる胎蔵界大日、『金剛頂経』 で説かれる金剛界大日の別があるが、密教の正規輸入者である空海がプロデュースした東寺講堂本尊をはじめ、彫刻の違例はは後者が圧倒的に多い。 三点が残る運慶の大日如来も金剛界大日である。
 ◆ 他の如来像とは異なり、宝冠をかぶり、装身具をおびた、菩薩の姿で表現される。

平成戊戌・辛酉・甲午
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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