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戦国時代

2018.09.03(07:00) 175

**戦国期の北条氏

**北条改称

北条氏綱は、家督相続直後から支配体制整備のための施策を打ち出していたが、さらに支配の正当性を主張するための銘文作りに務めた。
   まず大永二年(1522)に、相模一之宮の寒川神社(samukawa)や箱根権現の宝殿など、寺社の造営事業を行っている。  箱根権現に納められた棟札には「相州太守伊勢平氏綱新造」 と書かれ、相模国守の地位が強調される。  その立場から、国内の寺社の保護に努めている事をアピールしている。

  その後に、名字を「伊勢」 から「北条」 に改めている。  北条は宗瑞が居城としていた韮山城近辺の地名であるが、重要なのは鎌倉幕府・執権北条氏の名字を継承する事であった。   鎌倉幕府が関東を支配していた事はもちろんだが、北条氏の当主は代々「相模守」 に任官していた事もあり、「相模太守」 に相応しい家柄と考えられたのである。

**江戸城・奪取

北条氏綱は、こうして体制を固めつつ、相模津久井城(相模原市)の内藤氏、武蔵滝山城(八王子市)の大石氏、武蔵勝沼城(青梅市)の三田氏らを味方につけ、武蔵への進出を開始した。
  氏綱が狙いを付けたのは、江戸湾に面し隅田川・荒川の河口に位置する交通の要所江戸城(千代田区)である。  江戸城を守る扇ヶ谷上杉の宿老太田資高(suketaka)(道灌の孫)と密かに結び、軍勢を率いて多摩川を越えた。 扇ヶ谷上杉朝興(tomooki)は、高縄原(takanawagahara)(港区)で迎え撃ったが敗れ、江戸城を守ることが出来ずに河越城に敗走した
  江戸城には、北条氏の重臣の遠山直景(naokage)が置かれ、太田資高と共に支配に当たった。
さらに氏綱は、勢いをかって岩付城(岩槻)・蕨城(戸田)毛呂城(毛呂山)を次々と攻略、朝興は河越城からの退却を余儀なくされた。   しかし、山之内上杉憲房(norifusa)の援軍を得た扇ヶ谷上杉朝興は岩付城、毛呂城、を奪回、武田信虎(nobutora)も津久井城を攻めて援護した。
  その後も一進一退を続く。  翌年には安房の里見氏と上総の真理谷(mariyatu)武田氏が海上から江戸に攻め込み、朝興が蕨城を奪回するのを助けた。
   新興勢力の北条氏の台頭に対抗すべく、朝興の要請に応じたと言えよう。 こうして南関東では、古河公方・両上杉氏・上総真理谷武田氏・安房里見氏による反北条氏包囲網が形成され、甲斐武田氏もこれに加わったのである。  この年、里見軍が鎌倉に乱入して鎌倉八幡宮を焼く一方で朝興は蕨城の奪回に成功し、相模玉縄城まで進撃している。

再現された・鎌倉二階堂・永福寺基壇2景
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     **運慶小辞典  

**さて、仏師・運慶の次の証明作品は東京・真如苑真澄寺の大日如来坐像です。
   精密な毛筋彫り、充実した体の張りと胸前の空間にきりりと結ばれた智拳印、顕著な運慶風を示す出来栄えに加え、像内納入品の形式が共通する事もX線撮影で確認されている。    2011・2・18   於・金沢文庫・「運慶展」
*この像は平成20年、当時の所有者によってNYクリスティーズのオークションにかけられ、東京・真如苑によって落札された。「運慶 米で競売へ  海外流出の怖れ」 との二ユースにも流れた事もあり、大きな話題を呼んだこともある。

〇 大日如来坐像【61・6㌢木造割矧造り 漆箔玉眼】 仏師・運慶 建久4年・現存(重文)    作風、像内納入品の形式、文献   真如苑真澄寺蔵
     真如苑・大日如来坐像
真如苑・大日如来
(資料) 「特別展」 金沢文庫80年記念「運慶」図録より
 
**栃木県・鍐阿寺(hannaji)(足利氏の氏寺)の縁起「鍐阿寺樺崎縁起幷仏事次第」 によれば、足利義兼(yosikane)(尊氏6代祖)が開いた樺崎寺の下御堂では、建久4年11月6日付けの願文が納められた厨子に「三尺皆金色」の金剛界大日が祀られていたという文献史料が存在し、研究者の論考からこの像が文献にある足利義兼発願像である蓋然性は高いと言われる。

平成30年戊戌・壬戌・戊戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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