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戦国時代

2018.09.11(07:00) 177

**戦国期の北条氏

    **北条氏の発展

河越合戦の勝利は、北条氏の関東制覇の大きな画期となった。  関東での覇権を争う扇ヶ谷上杉は滅亡し、山之内上杉も事実上没落した。  

   この時期、氏康は内政面でも積極政策を展開している。   天文十九年(1550)には、それまであった雑多な税を廃し、土地の価値を表した貫高(kandaka)の6%の「懸銭」(kakesen)に統一する税制改革を実施した。
 
*懸銭(kakesen)・・・・・「諸点役」 と呼ばれる雑多な税制が、この時代に存在したが、「懸銭」という税制はシンプルな税制で、在地の領主たちの収奪に近い税制に比べ、大きな改革であった。  

   同時期に、北武蔵を中心とする広汎な地域で検地を実施し、新たな貫高を確定した。 その結果も踏まえて、家臣への軍役などの諸賦課の基本台帳である、いわゆる「小田原衆所領役帳」 が作成されている。
鎌倉・覚園寺黒地蔵盆  (鎌倉・二階堂)
黒地蔵・縁日
覚園寺・山門
覚園寺・薬師堂
   **「三国同盟」の成立

外交面で特筆すべきは、「三国同盟」 が成立した事である。 相模・駿河・甲斐の三国である。      北条氏の主敵は両上杉氏であったが、周辺の有力大名である駿河今川氏と甲斐武田氏が彼らと連携する事により、北条氏は窮地に追い込まれる事がしばしばあった。 この同盟によってそれが解消されたのである。
   この同盟は、当時の習慣により、三者間で婚姻関係が結ばれる事で成立した。   義元の娘が信玄の嫡子義信(yosinobu)に嫁いだ。  次いで震源の娘が氏康の嫡子氏政(ujimasa)に嫁いだ。  そして氏康の娘が義元の嫡子氏真(ujizane)に嫁ぐ事により同盟は成立した。    これにより、三者の境界に安定がもたらされた。  その後北条氏が北関東へ、武田氏が北信濃へ、今川氏が三河・尾張へと軍事行動を展開した事は良く知られている。
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    **運慶小辞典

◆◆ 次なる運慶作品はお地蔵さんです。・・・・・明治まで六波羅蜜寺の境内にあった十輪院(jiyuurinin)の旧本尊で、近世の地誌類に運慶・湛慶の合作と記される。    十輪院は運慶が洛中の八条高倉に構えた私寺・地蔵十輪院の由緒を引くと考えられ、また六波羅蜜寺には他にも運慶四男・康勝(kousixyou)作『空也上人立像』や運慶・湛慶とされる肖像彫刻が伝わる。
   こうした状況から、専門家は著しい運慶様式を根拠として、戦前から運慶作品と目されてきた。   問題は制作年代で文治年間前半とする派と、建久から正治にかけてとする派と大きく二つに分かれる。
  後者の場合、建久7年を最後に消息が途絶える(おそらく死亡)康慶の追善像であったと考えられる。

〇 地蔵菩薩坐像【89・7㌢(等身)木造一木造り彩色截金玉眼】 仏師・運慶 12世紀末現存(重文) 六波羅蜜寺(宝物館安置)  作風と伝来
     六波羅蜜寺・地蔵菩薩坐像
六波羅蜜寺地蔵菩薩
 (資料)    「芸術新潮」 2017・10月図録より
    
   ◆ 地蔵菩薩とは・・・・・
   阿弥陀や薬師の様に浄土に住むのではなく、六道輪廻の世界に現れてそこで苦しむ一切衆生を救済する。地蔵信仰は平安後期以降、浄土教の広まりと共に発展した。  特に、貴族の様に極楽往生の為の作善を成し得ず「地獄は必定」の思いを抱く庶民の間で、地獄迄下って人々を救済してくれる地蔵への信仰が高まった。 図像的には僧侶の姿で表され、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ事が多い。

平成30年戊戌‣壬戌‣丙午
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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