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戦国時代

2018.09.15(07:00) 178

**戦国期の北条氏

   **越後国主・長尾景虎

  長尾景虎は、関東管領・山之内上杉憲政(norimasa)の祖父である上杉顕定(akisada)を討った越後守護代長尾為景(tamekage)の子として、越後で生まれている。
  そのころの越後は、天文の乱が始まった頃で複雑な性格を帯びていた。  きっかけは、父為景の守護上杉房能(fusayosi)からの奪権に反発する上杉氏一族上条定憲(sadanori)の挙兵だったが、国人領主たちは為景の統制強化を快く思っておらず、大半が潘為景方となった。 その為、乱は20年に渡って続き、為景は引退に追い込まれた。しかし、強力な広域統治者が必要だったのは越後でも同じで、その地位を巡って長尾氏一族内部の主導権争いに転化していた。 (府内・長尾氏と上田・長尾氏)
鎌倉幕府執権邸跡・宝戒寺の萩     (鎌倉・雪ノ下)
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海蔵寺の萩と彼岸花  (鎌倉・扇ヶ谷)
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そのなかで、国人領主や上杉方の抵抗を鎮圧し、父の跡を兄晴景(harukage)や上田長尾政景(masakage)との抗争に勝利した景虎が国王の座に就くことにより、ようやく乱は鎮まったのである。   (景虎22歳)

    この乱を勝ち抜いた景虎が、優れた軍事・政治手腕を持っていた事は疑いあるまい。  だからこそ、その声望が関東にまで及んでいたのである。  上杉憲政が過去の経緯を捨てて越後に逃げ込んだのはその直後の事で、意気上がる青年景虎は、次の目標が出来たと大歓迎した事だろう。

  しかしながら、服属したとはいえ、国主の統制への国人領主たちの反発は依然強かった。 それに対し、景虎は、国王の座を降りて遠国に赴く意思を表明するという思い切った行動に出た。 越後の争乱を終息させ、統治に励もうと考えていたが、家臣たちは考えがまとまらず云う事を聞かず、家臣間の所領紛争が解決できないなど、問題は山積していた。 この様な状況に景虎は嫌気がさしたのではなかろうか。   また景虎がどの程度本気であったかは疑わしく、内部引き締めの演技であったのかどうか?。
   何れにしても、家臣たちはライバル政景を筆頭に慰留工作に乗り出した。 景虎ももそれを受ける形で引退表明を撤回し、家臣たちが一同忠義を尽くす旨の起請文を提出し、一件落着となった。

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**運慶小辞典

◆◆ 治承四年(1180)暮れの平家軍の攻撃により焼亡してしまった東大寺・興福寺の復興が本格化するのは翌年になってからです。 後白河法皇の命により造東大寺の担当官に真言僧・俊乗房重源(tiyougen)が,造興福寺の担当官には藤原兼光(kanemitu)が指名されて始まった。   
    文治二年(1186)、興福寺・西金堂に丈六の釈迦如来像を造っていた事が10年前に判りました。 興福寺僧の信円(sinen)の日記から、運慶が像を堂内に搬入し、設置した記述があるのを歴史学者が紹介したものです。  これまで作者が確定していなかった『仏頭』を運慶が造仏した事がはっきりしました。 

〇 仏頭【98・0㌢丈六仏頭部 木造寄木造り漆箔彫眼】 仏師・運慶 文治二年現存(重文) 興福寺国宝館蔵 伝来と文献

     奈良興福寺釈迦如来・仏頭
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  (資料)  芸術新潮2017・10月号より

◆  西金堂とは・・・・
  光明皇后(聖武天皇妃)が、母 ・県犬養三千代の菩提を弔うため、天平六年(734)に建立。 平安時代に羅災したが本尊は救出されたらしく、運慶は天平の釈迦如来像を見知っていたはずだ。
  南都焼き討ちによって焼失してしまった釈迦如来像は法皇の命のより興福寺・西金堂と共に再建されたが、江戸時代に講堂からの出火によって他の御堂と共に焼失、頭部の他一部が焼け残った。西金堂は資金難の為再建されず、基壇のみが残る。

平成30年戊戌‣壬戌‣庚戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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