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戦国時代

2018.09.19(07:00) 179

**戦国期の北条氏

**北条氏の反攻

 同じ時期に、関東でも北条氏の反攻が開始された。
北条氏康の松山城(埼玉・吉見町)の攻撃が開始された。   次にすでに上杉方に転じた三田氏の勝沼城(青梅市)攻撃に着手しており、翌年には陥落させ、三田氏の領地・家臣団ともに、息子の滝山城主(八王子市)・氏照(ujiteru)に管轄させている。  

    一方で、信玄も、時を同じくして西上野に出陣して、小幡氏の国峰城(群馬県)を攻め落とした。  さらに信玄は、氏康の松山城攻めを支援した後、両者共同で倉賀野城(高崎市)を攻略、すでに、武田ー北条間で北武蔵・西上野の支配権をめぐる合意が成立していたのだろう。

関東には上杉謙信を後ろ盾と頼む諸将が救援を待っており、謙信は毎年のように「越山」を繰り返す事になる。   謙信は、太田資正の救援依頼をうけて、越後府中を出馬、上越国境を越えて沼田に到着。  随分と難行だったようである。  松山城は城兵の奮闘により持ちこたえていたが、なぜか謙信の進軍も遅かった、城付近10㌔ほどに到着したが、籠城軍は力尽き降伏してしまった。    憤懣収まらない謙信は、若い兵隊の鬱憤を晴らすとして、近くの騎西城(kisai)(加須市)を攻撃した。    謙信に遺恨を抱き、北条方に転じた成田長泰の実弟小田朝興が城主だったため、この挙に出たのである。

 「謙信の越山」・・・・関東方面への国境超え支援  
   夏・鎌倉瑞泉寺 「芙蓉」・「曼殊沙華」
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松山城落城後、北条方による岩村城への圧力が強まり資正は再び謙信に援軍を要請した。しかし、多方面に課題を抱える謙信は直ちに応じることが出来ず、房総の里見氏に出陣を要請した。   里見氏は、北条方による久留里城(君津市)包囲という危機を、謙信の越山により切り抜けた後、急速に勢力を拡大していた。
   まず、北条軍の撤退した上総の旧武田領を取り戻し、さらに下総に進出して、千葉方の本拠中島城(銚子市)を攻撃している。 これに対し千葉氏は、北条氏との連携を強化して武力抗争に及んでいた。

   里見氏の勢力拡大による侵攻に対し、氏康・氏政父子が陣頭指揮を執り、遠山綱景(tunakage)率いる江戸衆を主力に、北条氏照(ujiteru)率いる滝山衆や北条綱成(tunasige)・氏繁(ujisige)の玉縄衆など、武蔵・相模の軍勢が迎え撃った。 戦いは二日間に及ぶ撃戦となり、北条方は千余人が戦死したというが、北条方の勝利で終わったという・・・・・・・・。
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      **運慶小辞典

 ◆◆ 今回の運慶作品は東大寺再建を成し遂げた勧進僧・重源上人の風姿「重源上人坐像」です
銘文や文献の裏付けを欠き、作者や制作時期は正確には判らない。 しかし、東大寺再建事業での重源との関りや作風から、運慶を作者と考える研究者は多い。
    制作時期は従来、建永元年(1206)に重源が86歳で没した直後とする意見が多かった。  この項では重源生前の正治二年(1200)説をとる。 (理由は後述する)

〇 重源上人坐像【81・8㌢木造寄木造り彩色彫眼】 仏師・運慶 正治二年・現存(国宝) 俊乗堂蔵   重源周辺の状況と作風
     重源上人坐像
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(資料)2013・11「東大寺展図録」より 於・金沢文庫

◆ 老いの様相を迫真的にとらえた顔貌の描写に息をのむ、皮がたるみ筋が浮いた首、そげた頬にたたまれた皺、左右で開き方が違う目、その下に垂れた肉、頑固者らしく結ばれたくちもと・・・・・・。  H23・11・17 於・金沢文庫東大寺展    
    写実的な彫刻は偉大な行動人の風貌を生々しく伝えられ、唐招提寺の【鑑真和上坐像】とならぶ肖像彫刻の最高傑作とされる。
◆ 重源は別当在任中に80歳に達した。これは釈迦の享年ですから仏者にとって単なる長寿で愛でたいという以上の意味を持ちます。 重源像は重源の八十賀(hatijiyuuga)を機に、その復興活動に対する東大寺の感謝の意を込めて造られたものというシナリオです。正治二年(1200)制作説 金沢文庫・瀬谷貴之氏

平成30年戊戌‣壬戌‣甲寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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