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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.12.06(20:13) 18

*続・頼朝挙兵 

三浦氏にとっては、隣接する鎌倉郡・高座郡を領する鎌倉党では大庭景親(kagetika)が力を増し三浦氏とは国衙在庁レベルでの親交があったと思われる兄の大庭景義(kageyosi)の存在感が薄れてしまった事、三浦義澄(yosizumi)の岳父である伊藤佑親(suketika)が在庁の立場で平家に対し律儀に忠節を尽くしたり、武蔵秩父党の最有力者で義明の女婿の畠山重忠(sigetada)が、一族の河越氏が平家に付いたため党内での地位が逆転してしまっていた。 周囲の状況はかなり不利な状況になったことは確かである。、
この様な状況を打開するため、三浦氏は源家再興を期待したのであろうが、それは即平家打倒というより、現実的な平家方国司や武士との紛争調停を調停する役どころを期待したようだ。  こうした調停者という立場を一般武士が武家棟梁に期待するのは、源頼義・義家(八幡太郎)以来の伝統と言えるだろう。
挙兵直後の頼朝が調停者の役どころを早速実行したのだ。   治承四年(1180)、挙兵直後、三浦一族の内岡崎義実(yosizane)・義忠父子は初戦から参加して居るのに対して、義明・義澄ら本隊は海路、陸路とも難航して頼朝に合流することが出来ず、やむなく衣笠城に引いたが、秩父党の襲撃を受け落城、義明討ち死にという事態を迎えた。
この年10月に畠山重忠(sigetada)・河越重頼(sigeyori)・江戸重長ら秩父党の主だった者が頼朝に帰服を求めてきたときに、頼朝は三浦一族をなだめ説得しています、兄弟らにとっては憤懣やるかたないことではあるが、長い目で見て武蔵国衙を握る秩父党との連携関係は、三浦氏が以前から希求していた事であり、双方にとって利益になる事になる。  (吾妻鑑)
さらに、関東武士が頼朝に調停者の立場を期待していた事柄を一つ、富士川の戦に勝利した頼朝が、追撃戦を主張したが、常胤(千葉)・義澄(三浦)・広常(上総介)らはそれを諌め、常陸の佐竹氏を討つべしとと進言。  頼朝はそれに従ったという。  (吾妻鑑)
この地域は頼朝挙兵以前から、常陸や房総の源家方武士と佐竹氏との間に確執があったので、常胤らはまず佐竹氏との問題を解決する必要があったのでしょう。  

*論功行賞

平家の正規軍に勝利した頼朝は10月23日に相模国府(大磯町)に入り、最初の論功行賞を行った。  そして、北条時政・千葉常胤・三浦義澄・上総介広常・和田義盛といった面々が本領を安堵され、或は新恩に浴した。   ここで頼朝は後に鎌倉殿と云われるようになる武家棟梁としての源家の再興を正式に宣言したのである。
和賀江島から江の島を望む(鎌倉市・材木座)
和賀江島から江の島

鎌倉幕府が主君鎌倉殿と御家人との間の主従関係を軸として成り立つ軍事政権として、今まさに幕府の基礎が歴史上出現したのである。   しかるに強調したいことは、最初に論功行賞が行われた場所が相模国府であること、頼朝が義澄の「三浦介」を安堵していたのである。 「介」は本来律令法で定められた国司次官の地位であり、頼朝がその地位を私的に安堵したことは、それ以後頼朝と家人の関係を律令法を超えた新しい法の下に置くことを頼朝主従が認めたことを意味するのである。
相模国についていえば、国主は頼朝であり、彼の代官として三浦介義澄が正式に就任したことを意味するのであるが、後に関東御分国(gobungoku)と云われた伊豆・上総・下総・武蔵などの諸国についても適用されていたのある。 こうして頼朝による国衙在庁支配が、在庁官人である御家人武士を介して行われていくようになり、それら頼朝の実効支配の及ぶ諸国が、幕府の中核的な政治基盤となったのである。 次回に続く

丙申・辛丑・壬戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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