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戦国時代

2018.09.23(07:00) 180

**戦国期の北条氏

**領国の仕組み

   長尾景虎(上杉謙信)の越山についてのレポートに移ってしまった。本題に戻る。

  北条氏は永禄十二年(1569)に「人改め」を実施し、百姓を国土防衛に動員する体制を作り出した。  その命令書では、これは「御国」の役なので、きちんと勤めなくてはならない、そもそも今のような乱世では、「その国」に住んでいる者は国土防衛戦に参加する事は義務であり、忌避したら直ちに処罰する。・・・・というものであった。

 なぜ、このような説明をしたのだろうか・・・・。中世のような身分制社会では、軍事は武士身分に属する者の役割であり、大名領国では大名から給分を与えられた侍が、その反対給付として軍役を勤めるのが原則であった。

   百姓身分の者は、軍事物資を運ぶ陣夫役や城の建設・修理を行う普請役の義務はあっても、本来は戦闘に参加する義務は無かった。  そこで北条氏は、彼らを動員する為,国家の倫理を持ち出し、正当化を図ったのである。  豊臣政権との関係が悪化しつつあった天正十五年(1587)にも、北条氏は「人改め」 を行っていいるが、侍・百姓をを問わず「御国御用」を勤めるよう命じており、「御国」に住む男は皆戦わねばならないのだとしている。  国家への忠誠は「御国」に奉仕する事によって果たされるとする。

   国家の役割が、外に向かっては国土防衛にあるとすれば、内に対しては社会秩序に維持があり、その柱は紛争解決ののための訴訟処理、すなわち裁判であった。  
  戦国期の東国社会では日本の他地域と同じように紛争が頻発し、公権力による裁判制度の充実が社会に求められていた。  北条氏は、その課題に応えるべく、様々な施策を行っている。 

裁判を行うには、準拠すべき法が無ければならない。   戦国期の地域権力が制定した法は、「戦国家法」等と呼ばれ結城氏新制度・・・今川氏の今川仮名目録・武田氏の甲州法度之次第・伊達氏の塵芥集などの法令集がある。

    北条氏は法令集を作成することは無かったが、「御国法」として様々な単行法令を制定している。    内容は、逃亡した百姓‣下人を取り返す「人返し」、三島社の祭銭納入、検地増分の処理方法、反銭の徴収など、民政に関わるものが多い事が判る。
  訴訟手続きに関する法令は無いが、評定衆が発給する虎の印判が押された裁許印判状が多く残っており、訴訟が受理されると特定の裁判員による審理が行われ、大途(daito)の名において判決が下されたと考えられる。  こうした制度は、残っている裁許印判状の発給から、天文末~永禄初年(1550)代に確立したと思われる。

大途・・・・・北条家当主の事

2018夏・瑞泉寺
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北条氏が各郷村の百姓中に発給した虎の印判状では、代官が新たに設定した役銭以外の「公事」を賦課した場合は、「御庭」に参上して直訴することが認められていた。   こうした百姓中からの直訴に応じるため、、北条氏は目安箱を設置した。 これを氏康は、徳政の一環として行われている「雑訴興行」だと自賛している。

   北条氏が大途として個別領主の民衆支配にまで介入している事は注目されるが、こうした訴訟だけが取り扱われていたわけではないことは勿論である。 裁許印判状が発給された案件の中には、武士や寺社など領主同志の所領をめぐる論争もあった。

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     **運慶小辞典

◆◆   運慶作品・晩年作…大威徳明王像
平成19年に像内から取り出された文書の奥書から、「源氏大弐殿」の発願で「法印運慶」が制作した像である事が判明した。
 本来は三面六手六足で水牛に跨っていたはずだが、水牛と足のすべてが失われ、腕も完存するのは一本だけ。 これほど傷みが激しく、又小さな像でありながら、頬が張り目鼻が中央に寄った顔立ちや、メリハリの利いた太づくりの体躯は、運慶らしい・・・・。   2011・2・18  於・金沢文庫
 
  *大威徳明王とは・・・・・サンスクリット名のYamantakaは、「死神ヤマに打ち勝つもの」の意。 密教の尊格で五大明王の一つ。戦勝を祈願する修法「勝軍法」の本尊として単独でも祀られる。

〇 大威徳明王像【21・2㌢木造割矧造り彩色截金玉眼】 仏師・運慶 建保四年・現存(重文)    称名寺光明院所蔵  像内納入文書・作風
     大威徳明王像
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(資料) 芸術新潮2017・10月号より
◆◆ 建保年間、運慶の仕事は再び鎌倉幕府、それも将軍の周辺に集中します。  実朝は鶴岡八幡宮の愛染明王を祀る北斗堂(愛染堂)を建立しますが、仏像の作者はやはり運慶でしょう。  光明院の像は本来、大日如来・愛染明王・大威徳明王の三尊構成だった事が納入文書から知られる。   これらは京で制作されたものを鎌倉に送ったと考えられています。 

平成30年戊戌‣壬戌・戊午
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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