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戦国時代

2018.09.27(07:00) 181

**戦国期の北条氏

**検地と貫高制

   戦国時代の日本は農業社会であり、富の源泉は基本的に土地にあったから、、社会秩序を維持するためには土地制度の安定が不可欠であった。 所領をめぐる紛争にせよ、年貢・公事をめぐる紛争にせよ、対象となる土地に関する権利・義務関係が問題になるからである。

  北条氏が実施した検地は、土地に対する給人の年貢取得権や百姓の耕作権の所在や収穫量を確定する事を目的とするものだったと言える。                                                 北条氏は氏綱・氏康に渡って小田原周辺や鎌倉更には相模・武蔵・伊豆で、集中的に検地を実施している。 これは、国主の代替りにあたり国土支配権に基づいて行われたものであり、同時に家臣との知行関係の再確認、すなわち代替り安堵の性格を持っていた。  また北武蔵で集中的に検地が実施されているが、これは河越合戦勝利後、新たに国土に編入された地域に対する征服地検地と考えられている。

    北条氏の検地の特徴は、第一に検地結果が「検地書出」として郷村を単位に示される場合が多い事、第二に検地の内容が銭の量である貫文高によって示されている事である。
  第一の特徴が生まれるのは、北条氏が郷村単位で代官を置き支配を担当させ、郷村の百姓中に年貢・諸役の納入を請け負わせていた事に依っている。 第二の特徴が生まれるのは、諸役を賦課する時の基準数値として貫文高を使っていた事、すなわち支配制度の基本として貫高制(kandakasei)を採用していた事による。

田の面積の、貫高は反別500文、畠の面積の貫高は反別165文と設定され、ここでは1反は360歩とされた。  ここから神田(sinden)・公事免・井料・代官給・定使給の20貫文が控除され「定納」額となる。

このように検地は、田畠の面積を測った上で、それぞれの反別貫高をを掛け、その合計を郷村の貫高とするという方式で行われていた。  これは賦課基準高で、実際の年貢は様々な控除を差し引いた上で決定された。   この基準高×0・06が租税である懸銭となる。 この場合郷全体が直轄領だったが、給地があった場合は、基準高は軍役負担量決定の基準となった。  貫高制は、こうした意味で、土地と関わる百姓・給人に対する共通の基準として機能した。

次回は、支配領の編成をレポートします

**運慶小辞典・・・・今回はお休みです。

平成30年戊戌‣壬戌‣壬戌
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