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戦国時代

2018.10.01(07:00) 182

**戦国期の北条氏

**支城領の編成

    北条氏は、領国全体を小田原の当主が直接支配するのではなく、各地に置いた支城を中心とする支城領を設定し、支城主に支配を担当させた。

     主な支城を列挙する。

相模

  玉縄城(神奈川・鎌倉市)・・・・・北条氏最初の支城で鎌倉の守り、城主が早雲の次男・氏時(ujitoki)に始まり、氏綱の次男・為昌(tamemasa)、為昌の女婿・綱成(tunasige)の家系へと引き継がれた。

  津久井城(神奈川・相模原市)・・・・相・甲・武の境目に位置し、いち早く北条方についた国人領主・内藤氏が代々の城主である。

武蔵

小机城(横浜・港北区)・・・・・江戸城攻略後、多摩川以南の支配拠点となり、城主は北条氏綱の甥・三郎から三男氏堯(ujitaka)の家系へと引き継がれた。

江戸城(東京・千代田区)・・・武蔵支配の重要拠点で、最初は家臣の遠山直景(naokage)・綱景(tunakage)父子が城代を勤めていたが、第二次国府台合戦で綱景が戦死したのち、北条綱成のの子氏秀(ujihide)が入り、最後は隠居した氏政が城主となった。

滝山城(東京・八王子市)・・・小田原─上野(kouzuke)間の交通を押さえる要衝に位置し、山之内上杉氏の重臣大石家に養子に入った氏康の三男・氏照(ujiteru)が城主となった。

鉢形城(埼玉・寄居町)・・・・滝山城と同じく武蔵・上野を押さえる要衝に位置し山之内上杉氏の重臣・藤田家に養子に入った氏康の四男・氏邦(ujikuni)が城主。

河越城(埼玉・川越市)・・・・・激烈な攻防戦が展開された後、家臣の大道寺氏が城代となった。

松山城(埼玉・吉見町)・・・・・河越城と同様、激烈な攻防戦が展開された後、扇ヶ谷上杉の家臣だった上田氏が城主となった。

岩付城(さいたま市・岩槻区)・・・北条氏に頑強に抵抗した太田資正(sukemasa)が追放され息子・資房が三船山合戦で戦死した後北条氏政の四男・氏房が城主となった。
鎌倉海蔵寺・夏     (鎌倉市・扇ヶ谷)
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この様に支城主には、基本的に北条一族が派遣された。  支城主は、領域内の北条氏家臣を支城衆という軍団に編成し軍事指揮に当たっていたが、それだけではなく、城下に河越宿・松山宿などの町場を抱えており、独自に法度を制定するなど、流通支配にも重要な役割を果たしていた。  また、検地や相論の裁許も独自に行い、自らの立場を「公儀」と称する事もあった。   しかし、それはあくまで本城主である「大途」に任せられた限りの事であり、北条氏の「公儀」は当主を頂点とする複合的な構造となっていた。

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**運慶小辞典

◆◆  鎌倉初期の優れた舞楽面としてかねてから知られるもの。  抜頭の裏側の朱銘には、建保七年(1219)に運慶が制作したとある。  これ迄この銘文は後入れとされてきたが作風はまさに当該期のものと評価される。
他方、陵王の頭上に跨る龍は、身を低く構えて前脚の両肘を左右に突き出し、下げおろした後脚の先を強くそらせる独特のスタイル。  鶴岡八幡宮や奈良・興福寺北円堂に同形式のものがある。  横浜・金沢区、瀬戸神社所蔵のこの両面を運慶作と専門家は比定する。

〇 舞楽面・陵王【32・4㌢木造彩色】 仏師・運慶 建保7年現存(重文) 瀬戸神社所蔵     作風・伝来・銘文
〇 舞楽面・抜頭【32・2㌢木造彩色】 仏師・運慶 建保7年現存(重文) 瀬戸神社所蔵     作風・伝来・銘文
**パソコン不調の為、画像はありません。  (修復工事中)

  ◆◆ 陵王・抜頭とは

  陵王は、北斉(中国)の蘭陵王が優美な顔を獰猛な面で隠して戦場に臨み、見事勝利を収めた故事に由来する舞楽。  抜頭は、猛獣に親を殺された息子が仇を討って歓喜するさまを描く舞楽で、面は胡人(中国西域の民族)の顔をかたどる。

平成30年戊戌‣癸亥・丙寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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