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戦国時代

2018.10.10(07:00) 184

**戦国期の北条氏

   後に編成された滝山衆では、滝山領に編入された三田領(東京・青梅市)の三田氏旧臣の土豪41人が「清戸三番衆」 に編成され「清戸番所」 に交替で勤務している。  同じく鉢形衆では、秩父孫次郎を筆頭とする139人が秩父衆として編成され、合戦の単位となっただけでなく、鉢形城内にある「秩父曲輪」 の維持・管理を命じられていた。   この様に、支城衆は地域性を強く帯びた単位で編成され、地域の秩序維持にも大きな役割を果たしていたのである。

**土豪層の編成

   こうしてみると、北条氏は地域社会の有力者である土豪層の掌握に力を入れていた事が窺われる。 彼らは直轄領代官にも任命されており、この面でも重要な役割を果たしていた。  
  土豪にとっても、大名とのあいだで主従関係を結ぶ事には、積極的な意味があった。  検地を契機として代官に任命されたが、検地が行われる前提には「隠田」 に関する彼らからの訴訟があった。 おそらくは以前の代官が開発等による耕地の増加を申告せず、そこから上がる収益を自分のものにしていたのだろう。  それを知った彼らは、年貢を増納するので代官にしてほしいと訴え出たのである。  それでも彼らは年具収増を上回る収量を見込めたのである。  年貢の増納を通じた得分の獲得をめぐる土豪間の争いは、訴訟を有利に導くために、裁判権者である大名と主従という強い関係を結ぶ事が有効だった。  土豪の大名家臣化は、当時の社会状況と密接に関わっていたのである。

 こうして家臣となった土豪を、大名が「衆」 あるいは有力家臣の寄子・同心として編成したのにも意味があった。  北条氏は当主氏政の直臣として取り立てた、寄子・同心は、軍事指揮や訴訟の取次という役割に止まるのであって、あくまで主人は大名なのである。 これには、彼らを直接掌握する事により、寄親となる有力家臣の力が過度に強化されるのを防ぐ目的があった。  寄親寄子制は、軍事力強化と有力家臣規制という、二律背反になりかねない課題達成のための、戦国大名独自の家臣団編成方式だったのである。

   後になると、北条氏はさらに土豪の取り立てを強化しようとするが、与えるべき給分に事欠くようになった。  そのような時、北条氏は百姓の負担である棟別役を免除する事で、彼らの軍事動員を図った。  棟別赦免により「大途の御被官」 に取り立てるので、「諸道具よく嗜み走り廻るべき事」 を命じられた。  このような場合でも、あくまで「大途」 の直臣として編成する原則を貫徹しようとしたのである。
北鎌倉・東慶寺 「秋」 
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**百姓の編成と年貢・公事収取体制

    北条氏は領国を支配領単位で編成し、支城主に支配を担当させていた。  支城主は、さらに領域を郷村単位で編成し、代官に支配を担当させた。  
  百姓中は、検地を通じて定められた貫高に基づき、郷村単位で年貢・公事などの役を負担する事になる。  田は反別500文・畠は反別165文と定められた基準高に、郷村の田畠それぞれの総面積を掛けた合計として算出されるものだった。

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平成30年戊戌・癸亥・乙亥
**戦国期の北条氏

   後に編成された滝山衆では、滝山領に編入された三田領(東京・青梅)の三田氏旧臣の土豪41人が「清戸三番衆」 に編成され、「清人番所」 に交替で勤務している。 同じく鉢形衆では、秩父孫次朗をを筆頭とする139人が秩父衆として編成され、合戦の単位となっただけでなく、鉢形領内にある「秩父曲輪」 の維持・管理を命じられていた。 この様に、支城衆は地域性を強くおびた単位で編成され、地域の秩序維持にも大きな役割を果たしていたのである。

**土豪衆の編成

   こうしてみると、北条氏は地域社会の有力者である土豪層の掌握に力を入れていた事が窺われる。
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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