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戦国時代

2018.10.15(07:00) 185

**戦国期の北条氏

   田は反別500文‣畠は反別165文と定められた基準高に、郷村の田畠それぞれの総面積を掛けた合計として算出されるものだった。
  この反別高が何を根拠といて決められたかは不明だが、たとえば荘園制下では、田年貢は反別米三斗が標準で、畠には年貢がかからなかった。  これをそのまま戦国期に適用する事は出来ないが、戦国期の関東でも、以前に比べてかなりの増収となると考えて間違いないだろう。  加えて、「隠田」 が把握されて面積が増加しているから、大幅な増分が出されたのは当然である。
  そうは言っても、郷村側に余剰が残らなかったわけではない。  実際に、本年貢に付随した「内所務」(内徳)が存在しており、北条氏は、それには手を付けなかった。  そもそも田一反の収穫高が一律であるわけはないので、郷村貫高と現実の剰余量との間に差がある事は織り込み済みで、収納にゆとりを持たせたと見た方が良いだろう。

  もう一つ大事なのは、決められた郷村貫高から差し引かれる様々な控除分があった事である。  これらは、広い意味で農業生産・郷村の運営に必要な費用であり、それを領主が負担する事は中世日本の伝統でもあった。  これらの責任を領主が果たす限りにおいて、百姓側も年貢負担に同意したのであり、それを超えて収奪強化を図る領主に対しては、「非分」 として糾弾に立ち上がり、北条氏も大途として個別領主の行き過ぎを取り締まったのである。  ただし、これらの控除分の運用は、郷村運営の中心を担う代官が主導権を握っていいたと思われる。 年貢納入と関り、代官の地位を巡る土豪間の紛争が頻発していたのである。

   年貢と並んで百姓が「公事」 と呼ばれる諸役は、直轄領・給人領を問わず領国全体に賦課された。  雑税を整理・一本化した懸銭(貫高の6%)、田に対して賦課される反銭(反別40~80文)・屋敷の間口に対して賦課される棟別銭がある。
  これらは、特に使途を指定しない一般税だが、軍事に関しては、合戦の際に40貫文あたり一人・馬一匹の割合でかかる陣夫役、郷村が順番に銭を支出する廻陣夫役、20貫文あたり一人で年に10日城の普請を勤める普請役がかけられた。   日数が余った場合は城普請以外にも用水・堤などの普請に動員された。    これらは貫高に対応していたが、その他に雑公事として竹木・萱・縄・炭などの供出があった。  かなりの負担であるが、軍事や公共事業への国家的義務として正当化されていたと思われる。

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平成30年戊戌・癸亥・庚辰

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