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霜月騒動・安達泰盛

2018.10.20(07:00) 186

**安達一族

   安達氏の祖・盛長(morinaga)は、流人頼朝の当初からの従者だった。 「吾妻鑑」 には「藤九朗盛長」 と現われ、正治元年(1199)以降は出家していて「藤九郎入道蓮西」 と見える。  幕府創設に貢献しながらも、官職に就くことは無かったようだ。

   名字について「吾妻鑑」 には幕臣会議で梶原景時追放が決定されたとき「和田左衛門尉・足立藤九郎入道ら入り来たり、義村これに対す」とあり、名字は「足立」。  同じく別条に「安達藤九郎入道」 と「安達」 と見える。  前者は日記などの記録、後者は連署した起請文とみられ、盛長は晩年になって「安達」 の名字を使う事になったようだ。

   頼朝の乳母は武蔵武士・比企掃部允の妻で、比企尼と呼ばれた。  比企尼には三人の娘がおり、嫡女は在京し二条院に仕えて丹後内侍と称し、在京中に惟宗広言との間に忠久を生んだ(後の島津忠久)。
  関東に下向して後に藤九郎盛長に嫁し、源範頼室となる女性を生む。  次女は河越重頼の妻、三女は伊東佑清の妻。

   盛長は「武州足立郡」 を知行し、娘は頼朝の異母弟・範頼に嫁いだ。  盛長は武蔵国の有力武士比企氏の娘婿で、「安達」の名字は比企氏所緑の武蔵国足立郡に由来すると伝える。  盛長の妻が丹後内侍だった事は、「吾妻鑑」の記述から、景盛の死後に際して「母は丹後内侍」とある事から確認できる。
  丹後内侍のが仕えた二条院には、源頼政の娘も女房として仕え、讃岐と呼ばれた。  盛長は京都・源氏と身近な接点を持っていた。  丹後内侍は、後白河院の愛妾丹波内侍と同一人物かともみられている。

   霜月騒動の前夜、泰盛嫡子・宗景は源氏の子孫と主張したと伝えるが、類似の事は島津忠久を頼朝の子とする伝承を生む島津氏にも共通し、安達氏の源氏子孫説の背景の一つには丹後内侍の存在が考えられる。

   盛長と平家の関係は虚構なのだろうか・・・・。盛長の娘は源範頼室となった。  範頼は、源義朝が遠江池田宿の遊女との間にもうけた子で、後白河院の近臣で右大臣九条兼実の家司でもあった藤原範季に養育されたと伝える。  範季は、上野介や陸奥国の国守などを経歴し、後白河院による奥州平泉の藤原氏との交渉の窓口ともなった。  その子範資は後白河院の異母妹・八条院の蔵人となって仕えたと伝わる。
   盛長は実際にも平家と関係があった。  奥州平泉への出陣の盛長の手勢には囚人の身ながら筑前房良心がいた。  良心は忠盛四代の孫で時房の子であった。 屋島合戦で捕えられて盛長に預けられたが、武勇の人物として奥州遠征にも随従している。

**頼朝の側近

  頼朝の流人時代の盛長の動向は、僅かながら確認される。  頼朝の御前で佐々木秀綱の元服の加冠役を勤め、秀綱は盛綱と改名したとあり、盛綱の「盛」は盛長が烏帽子親によると伝えている。
  盛綱の父秀義は平治の乱で敗北し、藤原秀衡を頼って平泉に落ち延びる途上、相模国・渋谷重国に保護されていた。  隣地・大庭御厨の大庭景親は、平氏方の東国領主を統括する立場であった。  平家方の動向は、渋谷館の重国・秀義から盛綱等を通じて盛長に伝えられ、頼朝の耳に入っていた。
  

秋・鎌倉・・・・・報国寺(竹の寺)
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平成30年戊戌・癸亥・乙酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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