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霜月騒動・安達泰盛

2018.10.25(07:00) 187

**安達一族

**挙兵と盛長

   後白河院の第二皇子・以仁王(motohitoou)は、治承四年4月、源頼政・行家を通じて諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。  6月には三善康信の弟康清が伊豆の北条を訪れて京都の情報を伝達し、頼朝は挙兵の意思をかためる。
  頼朝は盛長を伊豆・相模に遣わした。  この時、三浦義明は一族を集めて味方する事を誓った。  また、盛長は下総の千葉常胤を訪ねて挙兵の意思を伝え、千葉氏一族が味方に加わる確約をとった。

挙兵した頼朝は、8月に伊豆目代・山木兼隆を襲撃して討ち取ったが、事前に盛長らは兼隆の居館の見取図を作成し、三島神社の祭礼に合わせるなど周到な準備をしていた。

   石橋山で大庭景親ら平家方の軍勢に敗北すると、頼朝らは真鶴から舟で安房に向かった。  北条時政らは三浦半島から逃れた三浦氏らと相模湾上で合流し、安房で頼朝と出会った。  敗れた時の行動が事前に計画されていたのであろう。
  房総に渡った頼朝は、千葉常胤の助力を得て千田親正らの平家方を破って勢力を増して武蔵・相模の武士を帰服させ鎌倉に入った。  謀反は成功し、頼朝の東国政権を生み出した。  盛長の事前交渉の成果を示すもので、盛長は幕府内で重要な宿老に列した。

**鎌倉・甘縄の邸宅

   鎌倉では甘縄に邸宅を構え、甘縄神明宮の管理に携わった。  邸宅は頼朝の渡御の場とされ、頼朝が甘縄神明宮を参詣した際に盛長邸に入っている。  建久二年(1191)3月、幕府・若宮等が焼亡した後も頼朝は盛長邸に移っており、御所の寝殿等がが完成した時には盛長邸から移っている。 盛長邸は将軍の仮御所の役割を果たしていた。 その後も、実朝誕生の御行始めでも甘縄の邸に入御するなど、たびたび盛長邸に渡っている。  

   甘縄神明宮との関係は、宝殿の修理が行われた際などには、全体の管理は盛長の管轄だったようだ。  また、将軍家御願寺社の奉行人が選定されると、盛長は大庭景能らと鶴岡八幡宮を担当した。 八幡宮の造営は、泰盛の代には安達氏累代の職とされており、安達氏の幕府内での地位に大きな権威を付与した。

 盛長邸の場所は、「新編鎌倉志」は『藤九郎盛長家敷は甘縄神明の前、東の方を云』と記すが、「吾妻鑑」等から見た甘縄邸の場所からは遠い印章を受ける。盛長邸をこの地に比定する事は難しい・・?。
甘縄神明宮・安達盛長邸旧跡  (鎌倉・長谷) 
甘縄神明宮
盛長邸・石塔

 盛長は、正治元年(1199)1月の頼朝死去を契機に出家したらしく、「吾妻鑑」 には「藤九郎入道蓮西」 とみえる。 頼家に将軍位が移ると、幕府は草創期以来の御家人13人で政を談合する事となったが、そのなかに時政らと共に連なる。  また、将軍頼家が盛長嫡子・景盛の愛妻を奪おうとして盛長邸に家臣を派遣した際、北条政子が自ら盛長邸に向かいこれを制止しているしている。  政子との親しい関係がうかがえる。  盛長は頼朝の寵臣として幕府内で重きをなしたものの、官職は受けず、生涯、無官のままであった。


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平成30年戊戌・癸亥・庚寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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