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霜月騒動・安達泰盛

2018.10.30(07:00) 188

**安達一族

**祖父・景盛

    景盛は、承久の乱に際し、北条政子の意図を受けて関東御家人を集めて京都を攻撃する意志を明確に示す演説を行い、宝治合戦にあたっては隠棲していた高野山から鎌倉に戻って時頼と相談してのち三浦泰村一族を滅ぼすよう嫡子・義景・孫泰盛に督励した。

    景盛の経歴は、丹後内侍、建久二年(1207)に右衛門尉、建保六年(1218)に出羽権介・秋田城介、翌年の実朝の死に殉じて出家、法名は大蓮房覚智、高野山で死没した。
  高野山にあった事から、高野入道と称された。  「吾妻鑑」 の初見で、安達藤九郎景盛。 父の出家後に公的な場に現れた。 将軍実朝とも関係が深かったが、一方で将軍頼家とは微妙な関係にあった。 景盛は京下りの女性と昵懇な関係にあったが、頼家はこの女性を我が元に置こうとした。  その為には景盛と引き離すことが必要であった、そこで三河国で起きた窃盗事件の対応に景盛を派遣する事にした。  景盛は固辞したものの、父以来の官国という理由で三河に出発すると、頼家は女性を御所内に囲ってしまう。  あげくのはては、景盛を謀反人にしたて暗殺を企てたが、北条政子がこれを阻み、政子の指示で景盛は頼家に謀反の意思はないと起請文を書いて一件は収まった。

  頼家の景盛への恨みは晴れる事は無かったようで、伊豆・修善寺に幽閉された頼家は、政子と実朝にあてて、腹心の者との面会を請願すると共に景盛を罰してほしいと要求している。  しかし、政子・実朝の信頼は厚く、幕府が鎌倉内の寺社の奉行人を決定すると、景盛は頼朝を祀る法華堂を担当した。

**『秋田城介』任官

    建保元年(1213)5月の和田合戦は、侍所別当・和田義盛を倒すことで、その職を北条義時が掌握し、執権体制の確立に画期をなす事件となった。  景盛と弟時長は恩賞を拝領しており、義盛追討の軍勢に加わっている。 さらに、平賀朝雅の将軍擁立に失敗した北条時政を伊豆に押し込める事を決めた時、三善康信や景盛らは義時邸に集まって決定した。  8月の宇都宮頼綱の謀反発覚の際には義時・大江広元・景盛が討伐の決定をくだしている。  梶原景時・畠山重忠らが追放される中、幕府政治を動かす主要な御家人の一員であった。

    その有力者ぶりは、将軍渡御の宴の設営にも見える。 実朝が伊豆山・箱根権現を参詣する二所参詣から帰った際、将軍御所で景盛がもてなしを差配している。  実朝は地震の為に御所から義時邸に移っていたが,改築が終わり御所に帰ると、景盛は御所の化粧直しや引き出物や供奉人への贈り物を準備している。

    実朝が右近少将に任じられると、景盛を御前に召して「出羽城介」 への任官を伝えている。  実朝の急速な官位上昇と軌を一にしている。 「吾妻鑑」には、出羽城介の職は醍醐天皇以来中絶していたが、景盛が補任したとある。

*秋田城介・・・・・出羽国主の次官で国府が秋田城だったことに由来するが、その官職は名目的なものだった。
 
   景盛の所領を見ると、和田合戦で武蔵・長井荘(埼玉)を拝領した。  元々平家方の斎藤実盛領が没官されて和田義盛になり、合戦後安達領に転じた。  弟・時長の名字「大曾禰」 は、大曾禰荘(山形)に由来する。 同地に盛長創建と伝わる毘沙門堂があり、この堂は安達氏一門が代々住持した毘沙門山・真妙寺の御堂を移設したと伝える。  大曾禰荘の年貢には水豹皮(アザラシの皮)がみえ、北方との交易が見える。   
  景盛の出家後、嫡子・義景が安達の家督を継承して以降、「大曾禰」 を名字とする分家が成立していた。
秋・鎌倉    (鎌倉・雪ノ下)  
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**承久の乱

   承久三年(1221)4月、後鳥羽上皇が義時追討の挙に出ると、北条政子は御家人を集め、景盛を通じて出陣を命じた。  政子の演説は、頼朝は朝敵を倒して幕府を草創し、御家人らは頼朝から官位・棒禄を与えられた恩顧を思い出して京方を打倒せよというもので、景盛が代読した。 政子の景盛に対する信頼ぶりが判る。
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平成30年戊戌・癸亥・乙未

   
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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