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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.05(07:00) 189

**安達一族

**高野山参籠

   嘉禄元年(1225)、北条政子が没し、高野山に籠る。  高野山では実朝らの菩提を弔うために政子が後援し、景盛が本願となった金剛三昧院にあった。
  金剛三昧院の初代長老・退耕行勇(toikou・giyouyuu)は栄西の門下で、政子の信頼厚く入寺した。  その入寺は景盛の推薦とある。
 景盛と高野山の関係は在鎌倉の頃からのようで、承久元年に高野山と吉野金峰山に相論が発生した時、東寺長者・道尊は退耕行勇を媒介に幕府に具申して解決を見た。  景盛は解決に関わったとみられる。

    高野山にあった景盛は、宝治元年(1247)4月、突如として鎌倉に下る。  下向と同時に北条時頼邸に参じ、三浦一族を倒す事を子息らに督励した。  政敵を倒して時頼政権の安定を見届け、翌年五月に没した。
景盛は宝治合戦の首謀者と目された。 高野にあっても鎌倉の情報は逐一掌握していた事の証拠であろう。  その淵源には、政子の意思を代表する人物としての評価もあったろう。

    安達義景(yosikage)は景盛の嫡子、母は武藤頼佐の娘、官職は従五位下、「秋田城介」 義景の秋田城介就任は、父景盛の出家から17年ばかり経過しており、二十九歳である。 任官の年には将軍・頼経が上洛しており、これと関係があろう。

    義景の「義」 の一字は、執権・義時からの一字拝領であろう。  義時は既に没しており、義景は十五歳。  当時の元服の年齢は十四歳前後であり、義時晩年に元服したのであろう。 義景の時代は、将軍が源家将軍から藤原頼経・頼嗣・宗尊親王と摂家将軍・親王将軍にかわり、執権は義時・泰時・経時・時頼と執権政治の確立期にあたる。

    承久の乱ご、義時は西国の訴訟に対応して六波羅探題を設置し、泰時は嘉禄元年(1225)に評定衆を設置して御家人の合議を制度的に確立し、「御成敗式目」 をを制定して幕府の法秩序の規範を示した。   時頼は引付衆を設置して裁判制度を充実させた。 この間、義景は執権政治を支える立場に有った。

    幕府の動向を反映して、義景の職歴は、評定衆・五番引付頭人などを歴任。  宮騒動では時頼らと図って名越光時の追放に関与し、三浦氏を滅ぼした宝治合戦の主力であった事である。

    義景一族は、北条氏では得宗を中心に政村流・大仏流・金沢流、引付頭人の長井氏、幕府政所の二階堂氏、守護クラスに宇都宮氏・小笠原、武藤氏といった面々と縁を結んだ。

**時宗誕生

    時頼の下で義景が格別の地位を保ったことは、時頼正室・北条重時の娘が男子(時宗)を出産する「吾妻鑑」の一連の記事に窺われる。  甘縄の松下禅尼邸で祈祷が行われ、5月15日に無事出産した。
  時宗の出生は時頼の待ち望んだもので、産所は時頼の母である松下禅尼の邸宅とされた。 

鎌倉文学館の秋
鎌倉・文学館
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平成30年戊戌・甲子・辛丑
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