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鎌倉幕府と宿老三浦氏

2016.12.10(17:33) 19

**初期幕府政治と三浦氏

*頼朝時代の合議制

鎌倉幕府草創者の源頼朝は「独裁者」のイメージが強い。  彼が武家棟梁清和源氏の嫡流という「貴種」として、御家人らの上に君臨し、また御家人達も彼に絶対的忠誠を当然のことと感じていたことも事実であろう。  京都神護寺に伝わる頼朝像と考えられる坐像の、凛として寄せつけぬ姿が、頼朝=独裁者説を決定づけていると思われる。

*宿老

初期の宿老メンバーを記して置くと、                                                            1・千葉常胤(tunetane)(下総)                                                               2・上総介広常(hirotune)(上総)                                                              3・三浦義澄(yosizumi)(相模)                                                               4・土肥実平(sanehira)(相模・中村氏)                                                          5・小山朝政(tomomasa)(下野)                                                              6・三善善信(yosinobu)(問注所・執事)
7・岡崎義実(yosizane)(相模・三浦氏)
8・足立遠元(toomoto)(武蔵) 
9・安達盛長(morinaga)(武蔵)


言うまでもなく記してきた9名だけが宿老であったわけではなく、大将軍・八田知家(tomoie)(常陸)・・比企能員(hiki・yosikazu)(武蔵)・・宇佐美實政(sanemasa)(伊豆)・・畠山重忠(武蔵・秩父党)(大手軍先陣)・・和田義盛(相模・三浦氏)(侍所別当)・・梶原景時(相模・鎌倉党)(侍所次官)・・大江広元(hiromoto)(政所別当)等も宿老と同等に位置していたと思われる。
初期・鎌倉幕府重臣・大江広元邸旧跡
大江広元邸跡

こうした宿老メンバーを見ると、武士では、東国の有力家系を代表する人物がほぼもれなく名を連ねていることが解る。  
頼朝時代の幕府政治が、宿老御家人である東国の有力武士と吏僚首脳、および頼朝の後見である北条氏という三者の幹部が頼朝の「独裁政治」を支えていたのである。
以上、三者による合議の内容を「吾妻鑑」等からみてみると、宿老の名がみえる記事に同一人物の登場する頻度の多い宿老は三浦義澄・千葉常胤・足立遠元等が頻繁に登場する、単純な言い方をすれば初期頼朝時代の合議は、義澄・常胤あたりが代表格の宿老であったと思われる。

*椀飯奉仕(ouban・housi)

椀飯とは正月とか慶賀の折に、家臣が主君に酒食を奉仕し、武器武具の類を献上するという儀式であり、この時代には幕府における御家人の位置付け(席次)を現わすものとしてかなり重要視されていたようだ。
頼朝時代の椀飯で特筆される例が、建久二年(1191)、正月の椀飯で、一日が千葉常胤。 二日が三浦義澄。 三日が小山朝政。 五日に宇都宮朝綱の順に奉仕された。

ちなみに二日の義澄の椀飯を「吾妻鑑」の記述から再現してみます。  二日、辛亥、御椀飯・三浦介義澄の沙汰、御剣を持参す。  御弓箭、岡崎四朗義実,御行謄(mukabaki)、和田三郎宗実、砂金、三浦義連、鷲羽(wasinoha)、比企能員、御馬、三浦義村、太郎景連など三浦氏一族挙げての奉仕の様子がうかがえます。

*御剣・御弓箭・御行謄・砂金・鷲羽・御馬は・・・椀飯儀式の献上品リストと順序を示す。

頼朝乳母・比企尼の甥、比企能員邸跡(宿老)・・・・三浦氏女婿? 
比企能員邸跡・石塔

今タイトルの主題である三浦一族について整理すると、まず宿老としては惣領家(souriyoue)の義澄が千葉常胤と並んで当初から筆頭格ともいうべき位置にいたほか、義澄の叔父・岡崎義実と甥にあたる和田義盛(侍所別当)、それに女婿と思われる比企能員がそれぞれ宿老として重きを成していたのである。
頼朝時代の宿老御家人は、東国の有力武士の家系を代表する人物がなっていたのであるが、同族で四人というのは三浦氏以外にはなく、鎌倉幕府内での三浦一族の存在感は傑出していたと言ってよいだろう。
特に義澄は治承四年(1180),頼朝挙兵直後から、軍略に関して頼朝の諮問に答え、ある時は頼朝が指示した方針に反対意見を述べたりする一方、内乱後期には自ら西国に赴き、壇ノ浦の戦いには、海戦の不得手な源氏軍にあって「海のもののふ」の本領を発揮して味方を勝利に導いた。
内乱が終わって幕府が安定してくると、頼朝の岳父・北条時政や公文所別当大江広元の動向あが目立つようになるが、三浦一族では和田義盛が侍所別当という幕府の中枢部局に任じられ、義澄も相変わらず頼朝の信任厚く、上席を占めている。  また奥州討伐や上洛の際の頼朝の直衛隊に必ず義澄の姿があったと云う。
この様に義澄ら三浦一族の者が、宿老として幕府内に高い地位を占めることが出来た訳は、何といっても三浦氏が源家譜代の家人であり、頼朝の父義朝(yositom)が三浦義明の女婿であったとされるほど近い関係にあったからで、また三浦一族の抱える武士団の規模が群を抜いていたからだ。
宿老・三浦義澄、頼朝の後見北条時政,幕府官僚・大江広元の三者を、鎌倉殿・頼朝がバランスを取りながら自分の裁断権を行使する、これが頼朝の「独裁政治」と言われる実相でった。  この様な意味で、鎌倉幕府が武家政権といわれるのは、三浦氏に代表される地方武士特に国衙在庁関係者の政治感覚で運営されたからであろう。・・・・・
次回に続く      次回、頼朝後の三浦氏に続きます。

丙申・辛丑・丙寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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