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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.10(07:00) 190

**安達一族

**泰盛(yasumori)とその一族

    安達泰盛は、義景と小笠原時長の娘との間に寛喜三年(1231)に生まれ、弘安八年に霜月騒動で没した。 55歳の生涯を検証しよう。  

義景の男子に次郎頼景・三郎景村・泰盛・四朗時盛・五郎重景・顕盛・長景・時景があった。  四朗時盛は23歳で出家、45歳で没している。   泰盛は「吾妻鑑」によれば、寛元二年(1244)に上野国の御家人らが京都大番役を務めるに際して番頭として上洛した事が初めて見え、上野守護義景の代役であった。  泰盛は15歳。当初から「九朗」を名乗りとしていた。
   次郎頼景は正応四年、64歳で没し、た。  泰盛より二歳年長、泰盛は、年長の兄がいるにもかかわらず「九朗」を名乗っており、当初から安達家の嫡子と周知されていた。

   建長二年(1250)正月の垸飯で初日の調度役を義景が務めた際は、献上する馬の引き役を泰盛と四朗時盛が務めた。
   泰盛は、年長の二人の兄と十歳以上はなれた五人の弟を抱える惣領の地位にあった。 なお、泰盛自身は武芸にも優れていたとみえ、将軍興行の笠懸・犬追物などの射手として頻繁に見える。

   建長五年(1253)には宗尊親王の鶴岡八幡宮での花見に時頼・実時らと共に安達一族の代表として参加している。
  六月に義景が死去すると、八月の放生会の行列に安達氏一門は見えない。 喪に服したのであろう。  翌年の放生会には、泰盛をはじめ頼景、大曾禰長泰・盛経・景経と一門が参加しており、一斉に復帰した。

   正元二年(1260)正月の将軍・宗尊親王の出御の行列では、五位の者の列に泰盛と大曾禰長泰、六位に四朗時盛・六郎顕盛と並んでいる。  本家と大曾禰家、嫡庶の関係が固定している。  泰盛を頂点とした家格秩序を表している。

**泰盛に排除された兄弟

    泰盛は、頼景・時盛という年齢の近い兄弟は排除した。  頼景は笠懸の射手として見えるのが初見で寛喜元年(1229)の生まれ、泰時の二歳年長である。  幕府行事には供奉人や将軍警護などを勤め、宗尊親王の鎌倉入りをを伝える使節等を勤めて、泰盛と共に引付衆に列した。  家督継承者の候補の一人だったのだろう。 しかし、正嘉元年(1257)には丹後守となり、秋田城介の継承候補から外れた。また、将軍・宗尊親王との関係から六波羅評定衆に転出している。当時の六波羅探題は時宗の兄時輔で、宗尊親王に近い人物を追放する意図があった。
北条時宗・産湯の井戸・・・・・・安達一族邸宅跡    (鎌倉・長谷)
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平成30年戊戌・甲子・丙午
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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