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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.15(07:00) 191

**安達一族

**排除された兄弟
 
   執権・時頼が亡くなると、長兄・頼景は名越時章・武藤景頼・二階堂行氏らと共に出家した。  北条時輔・名越時章らが殺害された二月騒動に連座して関東に召しくだされ、所領二か所を没収され、後に64歳で没している。

  時盛は、泰盛より十歳年下である。 「吾妻鑑」の初見で、将軍に贈られる馬の引き役として四朗時盛と見える。頼景同様の幕府行事の供奉人に見え、四朗左衛門尉時盛と見える。  時頼が没すると出家して法名は道洪。  文永三年(1266)、将軍を追われた宗尊親王を京都に送るに際し、幕府の使者を務めた。  
   建治二年(1276)突然、遁世して寿福寺にはいり、所領をすべて没収された。  遁世の事情は不明であるが、罪を着せられての出家で、追放されている。  追放は一門合意の上で、決定を下したのは泰盛に他ならない。  両人は、泰盛の立場を強化するにあたって排除されたと思われる。  弘安八年(1285)、高野山で没している。

**信頼した兄弟

   重用したり違和感を持たなかった兄弟には顕盛・長景・時景ら年少の兄弟たちである。
   顕盛は、寛元三年(1245)の生まれ、引付衆、加賀守、弘安元年(1278)に評定衆に加わったが、この年に死亡している、夫人は北条政村の娘だった。

   長景は弥九朗長景といい、妻は評定衆の二階堂行忠の娘。「蒙古襲来絵詞」 に、竹崎季長が泰盛邸を訪ねた際に奥の間で泰盛と同室している場面があり、泰盛と親しかった様子がうかがえる。

   引付衆・美濃守を拝領、弘安六年(1283)、比叡山の僧や日吉祇園社の神職が入京して朝廷に無理な要求をするも、六波羅の武士がこれを咎められなかった事件が発生した際、使者として二階堂行忠と共に上洛し,鎌倉武士は異国防御で手一杯として赦免を求めている。  具体的に記述すると、延暦寺・衆徒の禁中乱入事件を解決する使者として上洛した事については、関東申次・西園寺実兼の代理を務めた公衛と面会しており、延暦寺側の神輿入京の張本人を差し出すことや、六波羅探題や篝屋役の御家人がこれに対処しなかった失策を詫びながら、鎌倉側は蒙古襲来の風聞によってこれに備えていると弁明した。

   その後、馬・砂金を実兼に献上し、朝廷側から使者観証(勅書)を拝領している。  長景は幕府の使者としての役目を充分に果たす働きであった。
奈良・正倉院
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奈良・興福寺中金堂復興
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平成30年戊戌・甲子・辛亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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