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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.20(07:00) 192

**安達一族

**安達泰盛の妻と子女

   泰盛の正妻は北条重時の娘、重時は義時の子で、兄泰時が執権の時に六波羅探題をつとめ、宝治合戦後は執権時頼のもとで連署を務めた。

 その別荘に営まれたのが極楽寺で、鎌倉の宗教・文化人に大きな影響を与えた。   重時の娘について「泰盛妻、離別。時盛妻、離別。出家」の記述あり。 泰盛との離別後、政村の子時村に嫁したが、これとも離別して出家したとある。  離別した相手は霜月騒動・嘉元の乱で滅ぼされており、離別の背景には得宗による両者の排除があったようだ。

   子弟には盛宗・宗景の二名があった。 母は不明。盛宗は越前守となり、霜月騒動が鎮西(九州)の波及した岩門合戦で没し、宗景は秋田城介をついで家督を継承したが、霜月騒動で死亡した。   建治三年(1277)、検非違使に任官、城九朗判官と見える、弘安四年(1281)に引付衆、翌年には評定衆で秋田城介に任官した。

  盛宗・宗景共に「吾妻鑑」には見えない・・・・・。  宗景は、泰盛が弘安五年に陸奥守に任官するのを機に評定衆、翌年には秋田城介に任官した。  その翌年泰盛は出家しており、この時に宗景が家督を継承したとみられる。    

   娘には、北条(金沢)顕時に嫁した無着がいる。  夫の顕時が霜月騒動に縁座したのはその関係か・・・、下総国埴生荘に籠居する。 出家の事情は、泰盛と北条(金沢)実時ら金沢一門との所縁を示している。

   時宗に嫁した義景の娘・堀内殿は、建長四年(1252)の生まれ、弘長元年に結婚している。  時宗は十一歳、堀内殿は十歳。   父義景は建長五年に没しており、泰盛は堀内殿を親代わりとして養育しており、猶子としていたとみられる。 文永八年(1271)に貞時を生み、弘安七年(1284)に時宗が死去して後出家し、無学祖元に師事して潮音院覚山志道と号し、東慶寺(北鎌倉)の開山となった。
奈良・元興寺 (ならまち)
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平成30年戊戌・甲子・丙辰
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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