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霜月騒動・安達泰盛

2018.11.25(07:00) 193

**安達一族

**屋敷と別邸

   泰盛邸は、正嘉二年(1258)の鎌倉大火の記事から、父義景の屋敷を継承したものと思われる。
  時宗の婚儀にあたって堀内殿はこの甘縄邸から出御しており、この泰盛の邸宅を指う。 泰盛は甘縄屋敷を保持していた。

   甘縄邸の様子は「蒙古襲来絵詞」に描かれ「あまなわの館」と呼ばれた。  館は居間が二つに区切られていた。道と邸宅の間に溝があり、溝に土留めの板が張られ、板橋がかかっている。 門は板葺きで塀は練り塀、門口には樹木が植えられている。  建物内や庭先には家臣が控え、屋敷内には空間を仕切る板塀があった。  塀につけられた門の奥に泰盛がおり、ここで季長は泰盛と面会した。  絵巻がどれほど真実を伝えているかは不明だが、博多の石築地などは現状とよく似ており、溝の土留めなども発掘成果と見合う部分が多い。

*「蒙古襲来絵詞」・・・・「竹崎季長絵詞」ともいわれる。

 ほかには、松谷別荘と塔ノ辻屋形があった。  弘安八年(1285)11月の霜月騒動の際の安達泰盛乱聞書に見える。騒動の朝、松谷におり、貞時に出仕する為に「塔ノ辻屋形」に出向き、やがて貞時邸に参向するに及んで乱にあった。 松谷は佐助谷の一支谷であり、塔の辻は御成小学校近辺になる。  松谷別荘は泰盛の隠居後の居住の場で、塔辻屋形は幕府出仕用の邸宅であったとみられる。  他にも義景から受け継いだ別邸があった様だが、史料が不鮮明である。

**泰盛の経済力・所領

    将軍・宗尊親王の慶事に際して進物が届けられた際、北条時宗献上の砂金は100両、泰盛献上の砂金は30両。  幕府行事などでの砂金献上者は、安達義景・泰盛、北条政村、名越時章、名越公時、塩田義政、北条実時、北条時村といった人物に限られていた。
   建治元年(1275)、幕府は京都六条八幡宮を造営した。 六条八幡宮は源義家の邸内に設けられた鎮守社で、頼朝の時代には源氏の宗廟の一つとなっていた。 一方、寺社の造営は鎌倉中期までは御家人がそれぞれの工事を分担する仕組みだったが、この頃には金銭を拠出しての請負に変わっていた。  負担額は所領規模に相応したものと考えられ、御家人の経済力や一族編成の在り方を比較できる。
   六条八幡宮の役料を見ると安達義景分は、150貫文の負担を示しているが実態は泰盛の役料である。 北条時宗が500貫文、北条氏一門では塩田義政が300貫文、北条政村が200貫文、北条実時が80貫文、有力御家人では足利義氏が200貫文、長井泰秀が180貫文、千葉頼胤が100貫文、泰盛の守護国の上野国では筆頭が佐貫右衛門尉で20貫文、他は5~8貫文、である。 泰盛は北条氏一門と肩を並べ、千葉氏、足利氏、長井氏らと同格であった。  他に大曽禰長泰の25貫文が見える。 安達氏は義景・泰盛流と庶家大曾禰の二家に分かれ、それぞれ別の家産を維持していた。
奈良・元興寺  (古代瓦)他
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平成30年戊戌・甲子・辛酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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