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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.05(07:00) 195

**安達一族

**将軍・宗尊の追放

    時宗は、十四歳になった文永元年(1264)、執権・北条政村のもと連署の地位に付き、同五年までその職にあった。  時頼政権を支えていた大仏朝直が死去したのを受けて、引付の新人事が行われている。  一番引付頭人に名越時章が朝直の欠を補う形で補任され、二番引付頭人に北条実時、三番引付頭人に泰盛が補任された。  同時に実時と泰盛は新設の越訴奉行に就任した。  将軍周辺の行事などを司る小侍所別当は時宗と実時が同時に就任していたが、時宗の連署就任を契機に実時もこの職を辞し、後継には塩田宗政・北条業時という重時の子弟が継承している。

  時宗・実時が小侍所別当の職にあった時期に、宗尊親王は将軍出行を供奉する御家人を直接に差配しており、本来これを担当すべき小侍所別当である両者との間には大きな軋轢が形成されてしまった。

   文永三年(1266)、宗尊親王の正妻であった近衛基経の娘宰子と僧良基との間で密通事件が発覚した。  良基は、藤原基房の孫で曹洞宗を開いた道元と従兄弟にあたる。 幕府の祈雨や日蝕の祈祷をはじめ時頼の病気平癒の祈祷などを行った。  密通の発覚後、時宗邸で北条政村・北条実時・安達泰盛が「神秘の沙汰」を行うと、良基は御所から逃亡した。  その後、鎌倉に武士が終結する騒ぎが起こり、将軍謀反を理由に東使が派遣され、宗尊親王は帰洛する事になる。(将軍の追放)

   この事件の沙汰が連署・時宗邸で行われたのは、執権政村が時宗の得宗としての地位を配慮したもので、泰盛は将軍への求心性を持ちつつも時宗を支持したとみられている。  その後、東使・二階堂行忠と安達時盛が新将軍に三歳の維康親王を着ける事を朝廷に申請し、宣下が行われたのである。  年少の維康親王を将軍に着ける事で、時宗の権力を高める意図の下に行われた追放であった。

  泰盛と北条氏の立場は、弘長三年(1263)の時頼の死去を前後に異なる。  この年以前は、北条氏嫡流の家督である得宗が時頼、幕府の公権をになう執権は時頼ー長時、同年以降は得宗が時宗、執権が長時―政村―時宗と推移する。  泰盛は時宗とは義理の親子関係にあり立場が異なってくる。

   時頼存世中の泰盛をみよう。  泰盛は時宗の元服にあたって烏帽子を持参する役をになった。 時頼が没すると、名越時章・安達頼景・武藤景頼・二階堂行氏・安達時盛らが出家したが、泰盛はそのままで後嵯峨院の聴聞の勅使に源頼方と共に面会している。   当時、御家人の出家が相次いだが、大仏朝直は執権の長時や業時によって禁止を勧告され出家を思いとどまっている。  これは得宗の死を契機に出家する御家人を掣肘する意味があったと思われる。 
東大寺・二月堂回廊 (お水取り)
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二月堂より大仏殿を望む
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平成30年戊戌・乙丑・辛未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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