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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.10(07:00) 196

**安達一族

**二月騒動

   将軍・維康親王が五歳となった文永五年(1268)、執権に北条時宗が付いた。  時宗は十八歳、連署政村は六十四歳。  青年の得宗を長老が補佐する体制に代った。  
   
  維康親王は文永七年に元服、加冠は政村が務めた。  元服後には泰盛邸に入った。その後鶴岡八幡宮に参詣している。 この記録から時宗を支えたのは政村と泰盛の両人であると確認できる。

   時宗の政権は文永九年(1274)2月、京都で時宗の兄で六波羅探題南方・北条時輔を、鎌倉では名越時章・教時らを殺害した。 時章殺害の討手の御内人は恩賞はおろか、誤殺として殺害される非常なものであった。  将軍宗尊に近い名越氏、鎌倉の意向に合わない兄の時輔を倒し、得宗時宗に叛逆する勢力を排除して得宗への権力の集中を高めた。   (二月騒動)
   泰盛は、当時高野山の町石塔婆を整備しており、文永九年(1272)整備の町石には二月騒動の亡者への供養の願文を刻んでいる。  二月騒動の首謀者として率直に供養をし、自らの行為の正当化を試みたのではなかろうか。

    北条政村が死去すると、連署には重時の子義政がついたが間もなく退任し、それ以降重時の子業時がその職に就くまで7年余り連署は置かれていない。  得宗・時宗が執権として単独で幕府の命を伝える体制が整えられた。
   この間、蒙古襲来など重事が続く。  将軍と北条氏との関係を見ると、建治二年に将軍御所が焼失すると、将軍の臨時御所は時宗邸となる。  維康親王はその後,宗政邸(時宗・弟)に移っている。 将軍・維康親王はこのように得宗関係者の厳重な監視下にあったと考えられる。
   翌建治三年になって将軍維康親王の新しい御所の造営が行われた。  御所の造営には御家人に所課分の銭を供出させており、六条八幡宮の造営と同じ手続きであった。  

**第九代執権・貞時の烏帽子親

    幕府政治での泰盛の位置を見てみよう。  評定始めの招集は泰盛が奉行している。  建治三年、泰盛は五番引付頭人、泰盛の地位を背景にしたものであろう。 泰盛の松谷別荘に問注所執事・三善康有が呼び出され、肥後国安富荘地頭職を時宗が拝領する意思のある事を内々に将軍に伝達したという事で、泰盛の指示に従って下文を康有が書いた。泰盛は御恩奉行で、得宗といえども将軍が恩賞を与える下文の拝領は御恩奉行を通して行われた。 泰盛は、将軍の安堵の実務を代行する立場に有った。
  また、泰盛の息盛宗が検非違使に任官されて武家の装束白襖で出仕した。  泰盛一族は特別な視線で見られていた。
    
    安達氏の守護国上野国の一般人の訴訟を担当する雑人奉行に北条義宗が補任された。  義宗は北条時輔暗殺の首謀者で、時宗・泰盛の信任の許での補任であろう。  泰盛は、奉行や問注所の人員などの人事を掌握する立場にあったと思われる。

   建治三年12月、時宗の子貞時の元服に儀が行われ、理髪は北条宗政、烏帽子は泰盛。  貞時の母は泰盛の養女(堀内殿)。 泰盛は孫貞時の後見役となる。
奈良・興福寺
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奈良・興福寺  (新落慶・中金堂)
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平成30年戊戌・乙丑・丙子
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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