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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.15(07:00) 197

**安達一族

**得宗被官(御内人)の台頭

   六波羅探題が北条時国と北条時村に代わるに際して、時宗は泰盛と康有を召して寄合を招集、六波羅評定衆の人員14名の選出担当事務、寺社・関東御教書・問状・差符など実務手続きの在り方、在京人の綱紀粛正などを決定した。  その内容を記した事書や御教書は、秘密裏に泰盛が保管していた。  その六波羅評定衆の職務分担が改めて検討された。  構成メンバーは泰盛・三善康有・平頼綱・諏訪真性である。 頼綱と真性は得宗御内人の有力者。 御家人は泰盛ただ一人。

    泰盛の対抗勢力となる御内人は、北条泰時の時代、屋敷内に尾藤景綱・関実忠の家が有ったように、本来は北条家の家人である。  得宗家の地位上昇にしたがい侍所の所司に就くなどして得宗の意を体現し、平頼綱らが寄合の中枢に入ってきた。
  得宗被官の台頭を如実に示すのに、文永八年に日蓮が浄土・律を批判して捕縛され、龍ノ口で処刑される寸前に停止されて佐渡に流された龍口法難がある。  このころ、北条氏は浄土宗の然阿良忠や西大寺律宗の忍性を保護し、長時は浄光明寺、業時らは極楽寺、実時は称名寺を建立し、極楽寺の忍性は蒙古襲来の兆候に異国降伏の祈祷を行うなど幕府と密着して教線を拡大していた。

  『法華経』を唯一の根拠とする日蓮はこれらを批判し、信奉者らは武具をおびて抵抗した。  日蓮の批判は北条氏の政策批判につながるとされ、時宗は侍所の所司・平頼綱に命じて日蓮を捕縛して市中を引き回し、 さらに龍ノ口で処刑しようとした。
  日蓮は、泰盛の配慮で危うく難を逃れたが、この事件は、得宗被官の力が増した事を示す事件だった。

    泰盛は公安五年(1282)に陸奥守に任官。  それまでは、六波羅探題北方の北条時村が補任されており、泰村が任官した事が驚きを持って見られていた。 一方、時村は武蔵守に転じ、以後も六波羅探題に留まった。  幕府成立後の陸奥守は、大江広元・北条義時・足利義氏に北条重時・政村・宣時・時成・時村と推移した。
  時村は文永八年から弘安五年まで在任し、これを継承した泰村は弘安七年の出家迄在任し、宗景らの秋田城介・検非違使補任とほぼ重なり、泰盛の陸奥守任官の背景には成功銭の拠出などがあった筈である。

 当時、泰盛は高野山の修造事業等を行い、弘安三年に焼失した鶴岡八幡宮の造営が企画され泰盛が奉行となり社家を指揮している。  中枢の上宮・下宮は時宗や北条一門が担当し、境内に勧請された末社は一般御家人、楼門・神宮寺・拝殿・弊殿・鐘楼といった部分は安達・足利・長井氏に北条実時ら北条氏庶流の諸氏が担当している。
奈良・法隆寺
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平成30年戊戌・乙丑・辛巳

    
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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