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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.20(07:00) 198

**霜月騒動とは?・・・・・。

   さて、これまで霜月騒動(事件)に巻き込まれる事になる安達氏一族をレポートしてきましたが、愈々、この事件を出来る限り詳細にレポートします。

**戦後処理

   モンゴルとの合戦直後の弘安七年(1284)4月、執権・北条時宗が急逝した。 合戦の疲労が深かったのか、発病して程なくの急死であった。  34歳の早世である。 時宗の死は武家・公家共に不穏な空気をもたらした。  時宗には貞時一人しか子が無く、すぐに貞時が跡を継ぐべきところ、なぜか父の死後四か月を過ぎた7月にようやく第九代の執権が誕生した。  この間、六波羅探題南方北条時国や叔父の時光が誅されたり配流にされたりしており、背後に権力闘争があった可能性がある。

   公家政権は、先例に従い洛中30日の穢とし、6月を期限として五畿七道に殺生禁止令を布告した。 朝廷にとっても時宗の急死は一大事であった。

   弘安の蒙古合戦の戦後処理も滞っていた。  その最大の問題は恩賞問題である。 幕府は恩賞に充てる土地などをひねり出すのに苦慮していた。 しかも今回は神仏や非御家人にも恩賞を与える必要があった。 実質それが実行されるのは、弘安九年十月に入ってからであった。 また、モンゴルへの不安から異国警固番役は継続しており、それをめぐり一族の対立や所領経営の問題が九州を中心に噴出していた。

   この様な時に執権となった貞時は、まだ14歳の若者である。 貞時の背後にあり、幕府を実質的に動かしていたのは、叔父の有力者安達泰盛であった。  しかし泰盛のみが唯一実権を握っていたわけではない。 幕府の中枢を構成する寄合衆には、得宗の御内人筆頭の平頼綱がいた。 しかし当初、やはり幕府の政策と方向性を主導したのは安達泰盛であった。

   泰盛は得宗のみならず、将軍とも密接な関係を維持していた。 対面した将軍は、宗尊親王と維康親王と二代にわたり、将軍の親衛軍や側近の名簿には必ず泰盛の名がみえ、彼は将軍御所の近辺に宿所を構えていた。
  将軍の側に仕える者には文化的な素養が要求されたが、そのあたりの能力も持っており、京の政界や文化人との関係も深かったようだ。 また、彼は世尊寺流を汲む書道の達人であり、高野山奥院に卒塔婆を奉納し、町石の建立を行い、真言密教への造詣も深い教養人でもあった。  その泰盛がおのが政治生命を賭して率先して行った幕府の改革が『弘安徳政』と呼ばれる政策であった。

**弘安徳政

   弘安七年(1284)5月から翌年11月の霜月騒動までの間に、幕府は90ヶ条に及ぶ法令を矢継ぎ早に発布している。  幕府が発布した追加法の全体が750ヶ条であることから考えれば、いかに集中的に発布されたかが判るであろう。
 しかし、それらは全体として、幕府による徳政の名にふさわしい内容を備えていた。  この場合徳政とは、言葉本来の意味での恩徳ある政治、仁政を意味している。 しかし、発布の直後、霜月騒動で安達泰盛が失脚する事を考えると、これらの法令の発布の中心人物は泰盛その人をおいては考えられない。・・・・・その全体像は次回に・・・・・。
奈良・法隆寺  境内
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平成30年戊戌・乙丑・丙戌
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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