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霜月騒動・安達泰盛

2018.12.25(07:00) 199

**霜月騒動とは・・・・?

**弘安徳政

    泰盛の政策の主眼は、将軍権力へのテコ入れに置かれていた。  泰盛は空洞化していた将軍権力を建て直し、そのもとにおける幕府の刷新を目指したのである。  その為の経済基盤として関東御領(幕府直轄地)を立て直そうとした。

  「神領興行令」・「名主職安堵令」や悪党禁圧のために、特使を派遣し強力な政策の遂行を目指した。  そして流通経済の統制については河手・津泊市津料・沽酒・押買の禁止を諸国一同に命じている。  次に訴訟の興行は、裁判を迅速・公正に行う事で御家人制度の立て直しを狙ったものである。  さらに寺社領の興行は、諸国の一ノ宮・国分寺の興行や主に鎮西神領の興行であり、モンゴル襲来戦での恩賞を強く意識したものであった。

   これらの政策は、内容的には霜月騒動後の得宗権力のそれに引き継がれるものが意外に多い。 しかし、泰盛の徳政は、維康親王のもと将軍権力を建て直し、幕府の基盤を従来の御家人のみではなくすべての武士階級にまで拡大し、その事によって当時の国制に占める幕府の地位を一気に飛躍させる、という狙いを持っていた。  これは安達泰盛という稀有な人格だからこそ可能であったのかも知れません。

   こうした弘安徳政をさらに具体的にレポートして置こう・・・・・。  「神領興行令」と「名主職安堵令」である。  いずれも鎮西を対象として弘安七年(1284)6月に発布されたものである。  その主旨は、モンゴル襲来戦に勲功のある鎮西の神領と御家人以外の武士、つまり本所一円地の住人の所領のうち、不当に占拠されているものを、強制的に幕府の名において安堵するものであった。 その意味で、これはモンゴル襲来戦での恩賞としての意味を必然的に持つものであった。

 「神領興行令」は、徹底した神領保護の法で、幕府は神領に対する第三者の権利関係という、本来は管轄外の領域で強力な裁定を行う事で、神領をその統制下に置こうという方向性を持っていたといえる。
  一方の「名主職安堵令」は、これも本来幕府の管轄外である本所一円地の住人について法令だが、幕府はモンゴル戦において既に彼らを動員する権利を行使していた。

    この法令はモンゴル戦の戦後処理を旗印として、軍役を務めた鎮西の武士の所領・所職を下文(kudasibunn)で安堵するものであり、その内容は多様で「名主職」は象徴に過ぎない。  本所一円地住人で安堵を受けたものは、この時点で御家人となる。 もちろんその範囲は九州に限定されるが、泰盛はこれを全国に展開する意図を持っていた。  そこに、将軍を推戴した新生幕府の方向性を見据えていたのである。  その意味で、モンゴル襲来後の九州とは、従来の幕府の枠組み・国制の枠組みを突き破る試みであったのかも知れません。

    だが、立法以後の幕府中枢の動きを追うと、 泰盛の政策が実行されるには相当の困難があった事が判ってきた。  先に発布された、「両令」は泰盛の徳政の焦点となるものであるが、貞時が執権となり幕府の体制が固まると、揺り戻しがみられ、「名主職安堵令」の下文は、通常の御成敗と同じ効力を認められない修正法が発布され、同法の骨抜きを狙ったもので、御家人制の拡大に抵抗する勢力の動きがあり、その実行は遅々として進まずにいた。
  そして霜月騒動後の鎮西談議所は、この法令の白紙撤回から仕事を始める事になる。 霜月騒動で泰盛の徳政が頓挫した後、「神領興行令」・「名主職安堵令」ともに停止される。  しかし興味深いことに、「神領興行令」は復活してその後も発令されるが、「名主職安堵令」は継承されていない。  この事実にこそ、かえって泰盛の目指すものの意味が明瞭に現れている・・。
奈良・中宮寺
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平成30年戊戌・乙丑・辛卯
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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