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頼朝後の三浦氏

2016.12.14(15:09) 20

**再興と没落

*十三人合議制

正治元年(1199)・1・13、幕府初代将軍源頼朝が死去した。   彼の優れた調整能力によって均衡を保っていた宿老(代表格・三浦氏)・頼朝の後見(北条時政)・吏僚(首脳大江広元)の関係は、頼朝に代わる調停者の不在が原因となって、大きくバランスを崩すことになる。
頼朝の死の直後、嫡男・頼家は18歳で家督を継承、当時としては充分な年齢で張り切ってスタート、 鎌倉殿の威厳を発揮し出したのである、 ところが2月にスタートした鎌倉殿の職権と訴訟に関する直断を4月には幕府幹部によって停止され、 幹部13人による「談合」で取り計らうという決定を下してしまったのである。

*13人合議制メンバー   (吾妻鑑)  

〇  北条時政  62歳  伊豆  頼朝岳父(後見)
〇  北条義時  37歳  伊豆  時政継男(継承)
〇  大江広元  52歳  京都  政所別当
〇  三善善信  60歳  京都  問注所執事
〇  中原親能  57歳  京都  公事奉行人、京都守護
〇  三浦義澄  73歳  相模  宿老・三浦介
〇  八田知家  不詳   常陸  宿老・常陸守護
〇  和田義盛  53歳  相模  三浦氏・同族 宿老・侍所別当
〇  比企能員  不詳  安房   宿老・信濃守護 頼家乳母夫
〇  安達盛長  65歳  武蔵  宿老・上野奉行人・三河守護
〇  足立遠元  不詳  武蔵  宿老
〇  梶原景時  不詳  相模  宿老  鎌倉党・侍所次官
〇  二階堂行政 不詳 京都  政所令          以上13名


「合議」のメンバー構成は、宿老7名、吏僚4名、頼家後見2名である。
頼朝の死によって深刻な危機感を持ったのが北条時政です、時政が幕府内で高い地位を取り得たのは、頼朝の妻政子の実家であり、彼の後見であったからであって、武士としては三浦氏のような宿老御家人とは桁違いに見劣りがするし、立つ基盤がなかったのです。
後年北条一族が、武蔵国と相模国の支配を重視する理由が、時政なりに自身が地域支配という面で弱点があると自覚していたからと考える。
次に「吾妻鑑」の史料から当時の力関係を示す、「椀飯」(ouban)の記事(正治二年・1200年)に、
一日   北条時政
三日   三浦義澄
四日   大江広元
五日   八田知家
と記されている。 これだけ見れば、幕府内の位置は後見・宿老・吏僚の順となるが、  その他の椀飯は、二日に千葉常胤(宿老)、六日に大内惟義(門葉)、七日に小山朝政(宿老)、八日に結城朝光(頼朝寵臣)、となっていて、数の上では宿老が多い。

この年まで三浦氏は数の上で北条氏と拮抗していたが、この年の椀飯を最後の奉公として、三浦義澄が死去、建仁三年(1203)年に比企能員が北条氏によって謀殺され、結局三浦氏は幕府政治の合議体制から早めに脱落してしまう。
幕府・宿老  比企一族墓所・・日蓮宗・妙本寺  (鎌倉市・大町)
比企一族・墓所
日蓮上人・祖師堂(二天門)  幕府・宿老比企氏邸跡 (鎌倉市・大町)
妙本寺・二天門

「十三人合議制」とは言っても、談合衆が一堂に会して評議をしたわけではない。 メンバーの中には在京中の中原親能がいたし、最高齢の義澄は正治二年に死去、同年梶原景時も御家人たちから糾弾され戦死、その後安達盛長も死去して、頼家の代で「談合衆」は八人に減っている。  実際の談合は時政・広元・善信の三者協議と云う形になっていた。
頼家時代の「十三人合議制」は13名でスタートしたが、早いうちに後見北条氏と吏僚大江広元・三善善信だけの評議体となり、やがて時政(義時)と広元との協議体制に移行するのであって、いわゆる執権政治はこの様にして成立したと思われる。
つぎに、この執権政治期に、頼朝時代の宿老たち、或は彼らの二世はどうしたのか、義澄の跡を継いで三浦介となった義村について見ていきたい。      次回に続く

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