**霜月騒動とは・・・・?
**霜月騒動の勃発
弘安八年(1285)11月、得宗御内人平頼綱の軍勢は、鎌倉で安達泰盛を急襲し、これを滅ぼした。世にいう「霜月騒動」である。
霜月騒動はことのほか史料が少なく、その原因としては、「保暦間記」の記述によると、 泰盛の子宗景が源氏姓を名乗った事を、平頼綱が、安達宗景が将軍になろうと目論んでいる、と北条貞時に讒言した事に端を発する、という説である。 一見すると些細な讒言かも知れないが、弘安改革が骨抜きにされ、将軍維康の権威の盛り立てにも失敗しつつあった泰盛陣営が、自ら将軍を作り出そうとしていた、という見方はありえなくもない。 やはり将軍問題が焦点の一つであったことだけは間違いないのか?・・・・。
安達泰盛の打倒殲滅は周到に練られた計画のもとに進められた。 実際の戦闘は、11月17日に起こった。 泰盛は巳の刻まで甘縄の安達邸(奥の松谷の別邸)に居たが、辺りの騒然とした気配にきずき、塔の辻の屋敷に出向いた。 そして貞時邸を訪ねんと外出したところで敵の軍勢と遭遇、合戦となった。 死者30人、負傷者10人ばかりがあったという。
戦闘はその後も拡大し、将軍御所も延焼し申の刻頃には大勢が決した。 泰盛・宗景親子をはじめ、安達一族のほか総勢500人余りが滅亡した。 泰盛の弟重景は常陸で、甥にあたる宗顕は遠江で自害して果てた。 その他、泰盛の賛同者と見られる藤原相範・三浦頼連・二階堂行景・伴野長泰・武藤景泰・大曾根宗長・吉良滿氏・南部孫次郎らが討たれた。彼らの他にも多くの御家人が戦死を遂げたが、特に武蔵・上野の御家人に多くの自害者出たが、正確には判らない。
また、西国でも騒動が起こっており、美作・播磨でも安達氏の親族が逃亡し、渋谷氏の一族によって捕縛され、尼崎の沖に沈められた事が判っている。 そして九州でも合戦になり、宗景の兄弟で肥後守護代の安達盛宗がが博多で討たれ、筑前小弐景資が岩戸で敗死した。 (岩戸合戦)
安達泰盛方の多くは一族と御家人や幕府史僚の有力者だが、一方で頼綱に従い泰盛を攻撃した多くの武士たちもまた御家人であった。 その意味で、この戦闘は、得宗御内人勢力と御家人代表の安達氏との対決というよりも、御家人を新たに編成しようとした二つの勢力のせめぎ合いとその路線の相違がもたらしたもの、と見るべきという・・・・・。
安達泰盛を滅ぼした得宗御内人・平頼綱とは、そもそもどのような人物であったのか。 御内人とは北条得宗家に仕える私的従者の事で、本来は御家人の身分を持つ者であり、平(長崎)・諏訪・尾藤・工藤・安東などの家が有る。 このうち平(長崎)・諏訪・尾藤の嫡流は得宗公文所の執事(長官)・幕府侍所所司となることが出来、寄合集でもあった。
頼綱は、祖父盛綱以来の権勢を受け継いで公文所執事・侍所所司に就き、貞時の乳母夫でもあった。 安達泰盛と平頼綱は、幼い北条貞時に向かって相手の讒言を言い合ったという。 その頼綱が泰盛を倒すと、まず着手したのは、泰盛の政策の否定であった。
騒動の直後からおよそ一年半にわたり、弘安徳政ににも似た法令が矢継ぎ早に出された。 異国警固や訴訟の迅速化、鎮西の訴訟、悪党禁圧などである。 特に蒙古襲来の戦後処理に対処するため、弘安九年(1286)7月、鎮西談議所を博多に設置して、鎮西の訴訟へ対処し統治を進めた事は特筆される。頼綱政権もそれなりに徳政を進めたのである。
高輪・泉岳寺
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平成30年戊戌・乙丑・丙申
**霜月騒動の勃発
弘安八年(1285)11月、得宗御内人平頼綱の軍勢は、鎌倉で安達泰盛を急襲し、これを滅ぼした。世にいう「霜月騒動」である。
霜月騒動はことのほか史料が少なく、その原因としては、「保暦間記」の記述によると、 泰盛の子宗景が源氏姓を名乗った事を、平頼綱が、安達宗景が将軍になろうと目論んでいる、と北条貞時に讒言した事に端を発する、という説である。 一見すると些細な讒言かも知れないが、弘安改革が骨抜きにされ、将軍維康の権威の盛り立てにも失敗しつつあった泰盛陣営が、自ら将軍を作り出そうとしていた、という見方はありえなくもない。 やはり将軍問題が焦点の一つであったことだけは間違いないのか?・・・・。
安達泰盛の打倒殲滅は周到に練られた計画のもとに進められた。 実際の戦闘は、11月17日に起こった。 泰盛は巳の刻まで甘縄の安達邸(奥の松谷の別邸)に居たが、辺りの騒然とした気配にきずき、塔の辻の屋敷に出向いた。 そして貞時邸を訪ねんと外出したところで敵の軍勢と遭遇、合戦となった。 死者30人、負傷者10人ばかりがあったという。
戦闘はその後も拡大し、将軍御所も延焼し申の刻頃には大勢が決した。 泰盛・宗景親子をはじめ、安達一族のほか総勢500人余りが滅亡した。 泰盛の弟重景は常陸で、甥にあたる宗顕は遠江で自害して果てた。 その他、泰盛の賛同者と見られる藤原相範・三浦頼連・二階堂行景・伴野長泰・武藤景泰・大曾根宗長・吉良滿氏・南部孫次郎らが討たれた。彼らの他にも多くの御家人が戦死を遂げたが、特に武蔵・上野の御家人に多くの自害者出たが、正確には判らない。
また、西国でも騒動が起こっており、美作・播磨でも安達氏の親族が逃亡し、渋谷氏の一族によって捕縛され、尼崎の沖に沈められた事が判っている。 そして九州でも合戦になり、宗景の兄弟で肥後守護代の安達盛宗がが博多で討たれ、筑前小弐景資が岩戸で敗死した。 (岩戸合戦)
安達泰盛方の多くは一族と御家人や幕府史僚の有力者だが、一方で頼綱に従い泰盛を攻撃した多くの武士たちもまた御家人であった。 その意味で、この戦闘は、得宗御内人勢力と御家人代表の安達氏との対決というよりも、御家人を新たに編成しようとした二つの勢力のせめぎ合いとその路線の相違がもたらしたもの、と見るべきという・・・・・。
安達泰盛を滅ぼした得宗御内人・平頼綱とは、そもそもどのような人物であったのか。 御内人とは北条得宗家に仕える私的従者の事で、本来は御家人の身分を持つ者であり、平(長崎)・諏訪・尾藤・工藤・安東などの家が有る。 このうち平(長崎)・諏訪・尾藤の嫡流は得宗公文所の執事(長官)・幕府侍所所司となることが出来、寄合集でもあった。
頼綱は、祖父盛綱以来の権勢を受け継いで公文所執事・侍所所司に就き、貞時の乳母夫でもあった。 安達泰盛と平頼綱は、幼い北条貞時に向かって相手の讒言を言い合ったという。 その頼綱が泰盛を倒すと、まず着手したのは、泰盛の政策の否定であった。
騒動の直後からおよそ一年半にわたり、弘安徳政ににも似た法令が矢継ぎ早に出された。 異国警固や訴訟の迅速化、鎮西の訴訟、悪党禁圧などである。 特に蒙古襲来の戦後処理に対処するため、弘安九年(1286)7月、鎮西談議所を博多に設置して、鎮西の訴訟へ対処し統治を進めた事は特筆される。頼綱政権もそれなりに徳政を進めたのである。
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