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霜月騒動・安達泰盛

2019.01.05(07:00) 201

**霜月騒動とは・・・・・・。

**平頼綱の専制支配

    安達泰盛による鎮西名主職安堵令は明確に否定された。  それにより鎮西の本所一円地住人の御家人化の道は閉ざされた。  その背景に、鎮西を主とする既得権益にこだわる御家人の姿がある事は明らかであろう。 問題は、にもかかわらず、彼らに対する軍事動員と恩賞の宛行は継続している点である。  これでは、本所一円地住人の不満もいやが上のも増して行くだろう・・・・。

  また、もう一つの泰盛の柱である神領興行令も弘安九年十二月に撤廃され、一旦は廃法となった。  ただし、神領興行令それ自体は、消えてなくなったわけではなく、これ以後も発令されてゆくことには注意が必要である。
   頼綱は寄合を主導しつつ、こうした政策を行いながらも、評定衆・引付衆に加わる事が出来ず、また一族を配置することが出来なかった。 先例が無かったからである。 従って、その政策の基盤は脆弱であった。
 それを補うため、頼綱政権は御内人への権力に集中という専制化をとげ、また朝廷勢力への接近を計っていく。  まず、朝廷との関係を見れば、弘安十年に、頼綱は当時の治天である亀山上皇のもと、威勢を誇っていた大覚寺統を排除し、劣勢であった持明院統の後深草を上皇とし、さらに伏見天皇を皇位につけた。 頼綱は、後に両統迭立と呼ばれる皇位交代制の始まりを作ったことになる。


  また、宗尊の子で将軍の維康親王を更迭、京に追い返し、正応二年(1289)には後深草の庶子久明(hisaakira)親王を将軍に迎えた。 頼綱は皇位と将軍を意のままにする専横ぶりを発揮した。  また同じ年、頼綱の子飯沼資宗は、若干二十三歳で検非違使に任官している。 これも御内人では破格の任官であり、頼綱と朝廷との親密さを表す事実である。  これに加えて、頼綱は平氏(長崎氏)一門の御内人のみを信頼して政務を監察させている。 この事は、幕府の制度に拠点を持ちえない平頼綱とその政権の脆さを物語っている。  反安達氏で連合した勢力は、こうした頼綱の専横を見て失望し、その政権は急速に求心力を失っていく・・・・・。
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コメント
あけましておめでとうございます。
本年も楽しみにしています。よろしくお願い致します。
【2019/01/05 11:36】 | おかみです #- | [edit]
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