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霜月騒動・安達泰盛

2019.01.10(07:00) 202

**霜月騒動とは・・・・?

**平禅門の乱

   永仁元年(1293)、四月十三日、鎌倉を大地震が襲った。  建長寺が全焼したほか、二万三千人余りの人々が死亡したという大惨事である。  その惨状が冷めやらぬ二十二日早朝、執権北条貞時の意を受けた軍勢が、経師ヶ谷の平頼綱の屋敷を急襲した。  頼綱と資宗親子とその一族九十余人は、炎の中で自害したという。  頼綱は自ら傀儡としていた貞時に討たれたのである。 貞時もすでに二十三歳の青年に達している。  既に霜月騒動より八年が過ぎていた。

   事の発端は、頼綱の長男宗綱が、父頼綱が弟の資宗を将軍にたてようと企てていると密訴したことにある。 事の真偽は定かではないが、安達泰盛の時と同じ「将軍問題」が頼綱の場合にもあったのであろうか・・・。  専横の家臣を族滅させるには、こうした嫌疑で充分だったようだ。  頼綱は当時すでに入道していて平禅門(heizennmonn)と号していたので、これを平禅門の乱と呼んでいる。

**得宗専制政治

  弘安八年(1285)に勃発した霜月騒動から八年後の永仁元年(1293)に平頼綱による恐怖政治は終結した。 
   平頼綱を排除した後の貞時の政治は、当初まさに得宗専制の名にふさわしいものであった。 貞時は執権として頼綱に専横されていた幕府政治の改革に乗り出したのである。 まず、頼綱一党の遺領を没収の上、元の持ち主に返付した。 その中にはかつての安達泰盛の関係者が多かったに違いない。 頼綱の時代は、あたかもなかった事にされたのである。 

   貞時は、評定衆・引付衆・奉行人から起請文をとり、賄賂を禁じ忠誠を誓わせている。貞時のの政治は徳政を復活したかのように始まったのである。  そして貞時は五方引付を廃止し、執奏という組織をつくり、これを通じて裁判をすべて自分の許にあげて裁許しようとしたが、さすがこれは無謀な試みで、翌永仁二年に引付が復活する。  しかし重事については自ら裁許する事にしていた。
 
   貞時はまた、幕府職制の上で、家格や先例を無視した人事を通じて刷新を断行した。  そして自分の叔父たちの子である北条師時(morotoki)や北条宗方を重用し、脇を固めた。 さらに自らに近い家を取り込み、得宗への権力集中を目指したのである。 それは時宗時代の復活であり、得宗専制政治の絶頂期の姿であったと評価されている。

   しかし、こうした貞時の政策には、抵抗する勢力も厳然と存在していた。  それは北条庶家を中心とする特権的階層であり、越訴方の廃止と復活が目まぐるしく行われている事に現れている。 越訴方は、貞時の裁許を無効にする可能性を持つものであり、その存廃を巡って激しい政治的駆け引きが行われていたようである。  しかし貞時の政治は、嘉元の乱で失墜し挫折した。 そして貞時がすべてを放擲するまでは続けられた。  その最たる政策が「永仁の徳政令」である。

  以上で霜月騒動・安達泰盛のレポートは終了です。   鎌倉幕府はこの後滅亡への道を急速に進めたのである。

◆◆鎌倉の石塔・周辺の風景・・・・・安達泰盛のレポート終了で、暫くお休みします。  鎌倉市内に佇む石塔八十余基を巡りながら鎌倉北条氏の歴史を辿り、新しいレポート対象となる人物・一族・地域等のさらなる解釈をレポートしたいと考えています。  mituuroko
    

次回迄・・・・・。

平成31年・己亥・丙寅・丁未
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