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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.01.30(07:00) 204

**三浦一族

  平安時代の終りに清和源氏と真っ向から武力対決するに至る平清盛・宗盛ら、いわゆる伊勢平氏や源氏側に付いて後に鎌倉幕府の重鎮となる三浦義澄・千葉常胤・畠山重忠・北条時政らは、系図上ではいずれも桓武天皇を祖とする桓武平氏に属するが、この家系の直接の祖が天皇の祖孫高望王(takamotiou)とされる。 (諸説あり)

  さて、三浦氏の歴史を辿り、家の起源について、どのように「兵の家」が形成されていったのかを考えてみたい。
九世紀半ば過ぎの関東地方は、一口に言って治安状況は最悪であった。 各地に群雄(群盗)が割拠し、860年ころの武蔵国ではそのような状況に対処するため、郡ごとに検非違使が置かれたほどであった。  上総・下総辺りの情況も似たようなものであった。  この様な状況の中で上総国の事実上の行政責任者に任じられた高望は、いわば「貧乏くじ」を引いたようなものであったが、せっかく手に入れた地位であるから高望は、無理をして郎党を集めた。 こうして何人かの手兵を率いて任国に下った高望は、現地では彼が皇族の出身という事もあって「介殿」として手厚く遇されていたようだ。  高望の上総介在任中と思われる889~897に、少なくとも上総国内で群盗蜂起や俘囚の反乱という事件が起こったという記録は見当たらない。
   ここで指摘したかったことは、平高望のように都から遠く離れた地で、一廉の「兵の家」(武士団)を興すには、受領という地位がキーポイントになった点である。  言い換えれば高望のような存在が都の兵と地方の兵の接点になったという事であり、受領と在地の既存の「兵の家」 (在庁官人・国の検非違使など)との結びつきによって、中世的(領主)な武士団が成立したと考えられるのである。

三浦氏は桓武平氏・高望王の流れとする点では一致するものの、鎌倉時代に活躍する、衣笠城主・三浦義明の二代前為継(次)に至るまでの三、四世代の系図が複数存在するのである。  しかし、ここではレポーターの独断にて平朝臣三浦流の系図を採用する。
  三浦流の祖、・上総介平高望五男  良文(yosifumi)は、 【村岡五郎・従五位・武蔵掾】とあり、他のよく知られた兄弟、国香‣良兼・良将・良持らも、それぞれ常陸大掾・下総介・上総介・鎮守府将軍などの肩書が定着しており、良文が相模国鎌倉郡村岡を名字としている事から、他の兄弟と同様に相模介という肩書で良いだろう。

   以上のように、桓武平氏一統は高望の孫の世代あたりで、上総・下総・常陸・上野・下野の他に相模も自分たちの勢力範囲としていたようである。 さらに次の世代には安房・伊豆を加え「兵の家」(武士団)が形成されてゆくのである。

*武家棟梁の成立

   平安時代の初めごろには、武勇を芸とする人々「つわもの」が、都だけではなく地方にも登場し、中世的な武士へと発展していくのは、地方に登場した兵たちであるが、彼らが武士として成長する過程は一様ではなかった。   地方に登場し始めた兵たちが、後世活躍する武士の家系を形成するためには、都から地方に下向し土着する国司の存在が大きかった。   中でも、都に近い摂津に本拠を構えた源満仲(mitunaka)と、都からは遠い房総の地に土着した平高望(takamoti)とでは、武士の家の形成の仕方に大きな差があった。  その差はどうして生じたのか。又その差はその後の武士の歴史にどのような影響をもたらしたのであろうか・・・・。

   地方に起こった兵たちは、十世紀の承平・天慶の乱、十一世紀の平忠常(tadatune)の乱、前九年・後三年の役、そして十二世紀の源義親(yositika)事件、大蔵合戦、保元・平治の乱、治承・寿永の内乱など、幾多の戦乱を経験しながら、中世武士として確立していったのであるが、それらの戦乱のたびに、地方の武士たちを率いるリーダーとして活躍した武士が武家棟梁である。

  十~十二世紀、武家棟梁の代表として、清和源氏満仲の家系と、桓武平氏高望の家系が傑出していた、しかし、ただ家柄の良さだけが売り物では武家の棟梁にはなれない。  現に平高望は自分の皇親という立場と上総介としての実績を売りに、一代で上総・下総・常陸辺りに影響力を及ぼし、皇子たちをそれぞれ「介」クラスの有力者として国衙に足掛かりを持っていたが、諸国の兵を統率する棟梁には程遠い存在であった。   対し、源満仲は、自身がすでに棟梁の実力を備えていた事もあって、彼の息子の代には早くも武家棟梁たる地位を揺るぎないものにしているのである。 この差は一体どこから生じるのであろうか。 武士としての実力(武力)の差もあったろうが、それよりも都の最高権力者との結びつきの差ではなかろうか・・・・・。

   そもそも武家棟梁とは地方に登場した兵たちを統率する立場に立つのであるから、彼自身が地方の兵を上回る様な武力を擁している必要があった。  そしてこの点でも、上総介としていくばくかの武力を抱えていたにすぎない高望に比べて、源満仲が格段に棟梁に相応しかったと言えよう。 当時の史料等から満仲の郎党は、少なくとも四、五〇〇人はいたようだ。   時代は下って鎌倉時代になれば、四、五〇〇人ぐらいの郎党なら三浦氏一族クラスの武士団という事なるが、十世紀の段階では、間違いなく棟梁的武士の規模である。

   時代のテンポを少し早めよう、十一世紀後半になると政治状況は摂関政治から上皇による政治(院政)へと大きく変わってゆくが、その変化に合わせるように東北地方で大きな兵乱が起こった。 前九年の役(1251~62)と後三年の役(1083~87)である。

◆参考(系図)
高望王系図
三浦氏系図

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平成31年乙亥・丙寅・丁卯
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