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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.05(07:00) 206

**三浦一族

**前九年役・後三年役

    前九年役とは、陸奥の「俘囚の長」の系譜を引く有力者安倍氏(abesi)が国守に反抗した事をきっかけに、中央政府は源頼信(yorinobu)の子頼義(yoriyosi)に安倍氏追討を命じた。  頼義は苦戦を強いられながらも最後は出羽の有力者清原氏の支援を得て鎮定に成功するという経過をたどる兵乱で、足掛け十二年も続いたので「十二年合戦」とも言われた。

    次の後三年役は、前九年役で源頼義(yoriyosi)を支援した清原氏の内紛を陸奥守源義家(yosiie)・(八幡太郎)が介入し、一方の当事者清原清衡(kiyohira)・(後に藤原姓)を助けて、清原氏の後継者に据える事に成功するという経過をたどる兵乱である。

   この時の陸奥守・義家の家人(郎党)としては、三河国住人・兵藤太夫正経(masatune)および「将軍のつわもの」相模国住人・鎌倉権五郎景政(kagemasa)・三浦平太郎為継のほか後に山之内首藤氏を名乗るようになる藤原資道(sukemiti)等が登場するが、ごく少数の名がみえるのみである。 しかし、寛治元年(1087)の金沢柵攻防戦では、義家軍の兵力は既に数万騎の規模であったという、鎌倉権五郎景政、三浦平太郎為継、も既に出身地では勇名をとどろかせ、有力な「つわもの」だったのである。 つまり、義家の代で清和源氏は真に武家棟梁と言える存在となったのであり、彼の四代後の頼朝(yoritomo)が東国武士を中核とする政権の基を築いたという事である。

**三浦氏と清和源氏

   後三年役の鎌倉党梶原氏(kajihara)・大庭氏(ooba)らの祖とされる権五郎景政と共に参軍した三浦平太郎為継は、「将軍(義家)のつわもの」であり「相模のつわもの」であった。  為継の父とされる為通(tamemiti) ・・・系図参照・・・の注記に源頼義より相模国三浦郷を宛がわれ衣笠城を居城としたとある。  (諸説あり)
   さらに清和源氏と三浦氏の先祖との主従関係の成立を、さらに一世代ずつ前に遡らせる事も考えられるのである。 どういうことかというと、三浦氏の先祖が相模国に縁をもつのは、為通の一世代ないし二世代前と考えられ、一方清和源氏の側が同国と縁を持つのは頼義が初めてではなく、頼義の父頼信が相模守に任じられたことがあり、頼信─忠通の世代での主従関係の形成もあったと言えよう。

   三浦氏と清和源氏との関係は、為通の子為継の代の後三年の役の際、為継が「将軍(義家)のつわもの」として参戦している事を見ても、頼義─為通の主従関係を継承・発展させている事が判る。  なお後三年役には為継と共に鎌倉景政も同じく「将軍のつわもの」として参戦している。
   鎌倉党の祖も三浦氏と同じ村岡小五郎忠通とされるので、忠通の世代までに鎌倉党と清和源氏との主従関係が成立した可能性、及び鎌倉党と桓武平氏の家系との関係が成立した可能性が考えられるのである。  従って鎌倉党と三浦氏との間の清和源氏を頂点とする同盟と対立の起源も、十一世紀初めごろに遡って考える必要がありそうだ。   

   三浦為継の子義継(yositugu)の世代になると、清和源氏との関係は義家の子義親(yositika)、孫の為義を飛び越えて曾孫義朝(yositomo)の家臣としての登場となる。  折しも政治情勢は摂関家を抑えた院(上皇)の実権が強まり、清和源氏に代わって桓武平氏の末の伊勢平氏が、院政の常備軍である北面武士の筆頭として頭角を現しつつあったという事で、武家棟梁としての清和源氏の存在感は薄くなったいた。  当然為義(tameyosi)の棟梁としての重みの低下と裏腹に、子の源義朝(yositomo)は若年期に東国に根拠を置いて、その地の武士たちとの主従関係を再構築していた。

   三浦義継と源義朝(yositomo)の二人が同時に歴史上に名を連ねるのは、大庭御厨「乱入」事件においてである。  天養元年(1144)「鎌倉之楯」(現・寿福寺) に居住していた義朝が、大庭御厨の一部鵠沼郷は自分の支配圏内である鎌倉郡に入ると称して、俣野川を越えて御厨内に「乱入」したとされる。  記録によれば「田所目代散位源朝臣頼清ならびに在庁官人・上総曹司義朝名代清太夫安行・三浦義継・義明・中村宗平・和田助広、所従千余騎」が御厨内に押し入ったとある。   

   この記録と云うのは、大庭御厨の領家である伊勢神宮側の訴え状を引用し、それらを支持する裁定を示達したものであるから、かなり一方的内容である点を考慮しなければならないが、それにしても三浦義継・義明親子が源義朝側に立って行動していた事は明白である。   義朝が「鎌倉之楯」に住んでおり、字を「上総曹司」と称ししていた事、さらに彼が相模国田所目代や在庁官人など国衙関係者を動かせる立場に有った事など、実に注目すべき点が多い・・・・・・・。

   三浦氏と清和源氏との濃密な関係は、義継の子義明の世代に一段と顕著になる。  すなわち、十二世紀後半、都では保元の乱(1156)、平治の乱(1159)と二度にわたって大きな兵乱が起きたが、後者を題材にした「平治物語」に「義朝の嫡子鎌倉の悪源太義平(yosihira)の母方は「三浦大介義明女」とある。   この事は三浦義明と源義朝は姻戚関係をとり結んでいたと思われるのである。
参考資料・清和源氏系図
清和源氏・系図
参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図


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