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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.10(07:00) 208

**三浦一族

**三浦氏と清和源氏(続)

    源義平(yosihira)の母が三浦義明の娘であったかどうかは確たる証拠は残念ながら見当たらないが、義明と義朝の濃密な関係については、いくつか傍証になりうる点がある。   義朝が「鎌倉之楯」に居住していたという事である。 この楯(館)は現在鎌倉市の臨済宗・寿福寺境内である事はほぼ確定している。   この地に寿福寺(当初は亀谷寺)を建立する事を記した『吾妻鑑』正治二年(1180)2月12日条に、「尼御台所の御願として、伽藍を建立せんがため、土屋次郎が亀谷の地を点ぜらる。 これ下野国司(義朝)御旧居なり」と記される。

   これより以前治承四年(1180)10月に初めて鎌倉に入った源頼朝(yoritomo)が、父義朝(yositomo)の「亀谷御旧跡」に自分の屋敷を構えるため現地視察を行ったが、地形はそれほど広くなく、しかも岡崎義実(yosizane)が主君義朝の菩提を弔うため堂宇を建築中という事もあって、計画を断念して、大蔵の地に屋敷を新築する事になった。
   注目すべき事は、義朝の館の地を彼の没落後家臣である岡崎義実さらにその実子土屋義清(yosikiyo)が伝領していたという点である。  史料によれば、義朝は「鎌倉之楯」を「伝得」したとされ、あたかも清和源氏源氏代々が伝えてきた場所と受け取れるが、逆に本来は三浦氏に縁のある地を、何らかの切っ掛けで義朝が獲得したものと考えられるのである。 
   鎌倉の北部、すなわち横大路から六浦道へと続くルート沿いの地は、荏柄前、杉本、朝夷奈といづれも三浦一族和田氏関係の地である所から、横大路を西から抑える位置にある。「鎌倉之楯」の地も、早くから三浦一族の支配圏に入っていたと考えて良いでしょう。  その地を義朝に「伝得」させた当事者は義明であり、女婿(ミウチ)としての義朝に鎌倉の地を与え、そこに住まわせたのだろう。
  つぎに、義朝が「上総曹司」と呼ばれていた事についてであるが、義朝と上総国とを結び付ける手掛かりは無い、本人が直接関係ないとすると、父為義か母方の祖父藤原忠清が上総の関係者かと思われるが、この点についても記録はない。  ところが、幼いころの義朝がある時期、上総国内に住んでいた可能性も僅かではあるが考えられるのである。  義朝が父為義から安房国丸御厨を譲られたという記事と上総介広常(hirotune)と三浦義明の間の密接な関係の存在を前提とするもので、前者の弟金田頼次(yoritugu)は後者の女婿とされ、衣笠合戦では、頼次は義明親子が籠る衣笠城の守備の一角を担っているのである。
  安房国にいたと思われる若い義朝を養育する立場にあった義明が、膝元の相模に招くより安全な上総の広常に義朝を託したのではなかろうか。

    さらに、義朝と相模国衙との関係については、義朝側に立って大庭御厨に「乱入」したとされる人物の中に明らかに国衙の人間と判るのは「田所目代散位源朝臣頼清」である。  まず田所というのは国衙の機能を分掌する部局の一つで、文字通り国内の田地の管理を行っていたところである。  なかでも徴税事務を扱う税所と田所は重要な部局であった。  その田所の目代と云うのは、おそらく国守の代官で田所の責任者になっていた者の事であろうが、源頼清は散位ではあるが「朝臣」と称される国守クラスの中級貴族であるから、事実上相模国衙の筆頭者として在庁官人らを直接指揮する立場にあったと思われる。
  また義朝の名代とされる清大夫安行なる人物は「大夫」という称号から推しても、国衙に関係する地元の有力者であったと思われ、その様な人物が義朝の名代、すなわち私的な代官を勤めていることは注目される。  おそらく義朝は田所目代頼清と連携しつつ、相模国衙の有力者と個別に私的な主従関係を結んでいたのであろう。

   一方、三浦義継(yositugu)・義明(yosiaki)父子と義朝との関係は、義継の肩書が「庄司」であるが、すでに家職となっていた「介」の称号も持っていたはずである。  それが「庄司」という肩書で、清原安行と併記された理由は、義継・義明も国衙関係の有力者であったにもかかわらず、田所目代頼清の配下ではなく、義朝との私的な関係にもとづいて行動していたからに他ならない。
この点からも義朝と三浦氏との濃密な関係が浮かび上がってくる。

  このように見てくると、三浦氏と清和源氏は、他の関東武士と比べても格段に堅い絆で結ばれていると言えるのである。  両者間に姻戚関係があったとすれば、それは頼義室(義家母)の父平直方以来であり、義朝の世代では他に次男朝長(tomonaga)の母の実家である相模武士・波多野氏がいるだけで、後年三浦氏のライバルとなる伊豆の北条氏は、頼朝の世代でようやく、しかも偶然のきっかけで清和源氏との姻戚関係が出来たのである。  このような三浦氏と武家棟梁家との濃密な関係は、三浦氏が周辺の有力武士と同盟と対立の関係をとり結びながら中世武士へと発展してゆくうえで大きな意味を持ったのである。
参考資料・清和源氏(系図)
清和源氏・系図
参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図

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平成31年乙亥・丁卯・戊寅
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